お休みどころ 2005年10月28日 金曜日

 10月23日(日)、朝7時、阿部さんが迎えにきてくれました。グレッグさんと私はチビにたっぷりごはんをあげて出発です。今朝は西の空がまっ赤です。月は中天を指しています。この壺天に日月がともに集う。太陽は西から上がるものだったのか。ほうやりと立ちつくします。
 順子さんと人吉駅でまちあわせ、4人で鹿児島空港へむかいます。おきのさんとはそこでまちあわせ、病院から直接来るのでした。修学旅行の生徒のように私たちはおしゃべり。バスを降りるとき、プリプリと私たちをにらみつける人がいる。「もっと静かにできませんか」と怒られました。
 林洋子さんの25周年記念の会に出席するために上京するのです。洋子さんは股関節を人口骨頭に置換する手術をうけ、「雁の童子」のシタールをあきらめかけていたところに、シタール用の椅子をつくってくれる人に出会って、「世界にたった一つの椅子」ができたのが、この7月。「『雁の童子』は、私には賢治最高傑作とまで思える作品です。」と洋子さんは書きます。それを6年ぶりにシタールで弾き語りをする。おしゃべりしないでおれないではありませんか。
 洋子さんは常々こう言います。「智恵と力は使えば使うほどわいてくる。」湧いてこざるをえないものなのかもしれません。「洋子さんの会に行くよ」と斉藤庸子さんに連絡しました。庸子さんは1985年に『世界』で洋子さんと高木仁三郎さんと藤田祐幸さんの座談会を読み、洋子さんの公演を開きたいとおもいました。ちょうどそのころ論楽社で洋子さんの2回目の公演(なんと「雁の童子」)をしたので、まずそれを観てからと、倉敷から京都を訪ねられたのでした。以来、庸子さんとのつながりは続き、ついには、藤田省三さんの介護に参加。この世で省三さんがさいごに会ったのが庸子さんでした。「行く行く」と庸子さん。23日、会場で「不知火」以来の再会となりました。
 辻了美さんとも再会。京都での私たちのヨガの先生です。娘さんの出産間近にもかかわらず、来て下さいました。信にみちて。
 楢木祐司さんにも会えました。楢木さんは径書房で6年半仕事をしておりました。そのころかかわった仕事が『合言葉はクラムボン!』(林洋子)、『ある徴兵拒否者の歩み』(北御門二郎)。「1989年に『合言葉はクラムボン!』を読み、この人のあとについて回りたい」と順子さんはおもったのですが、その本(もと)となるのが楢木さん。二郎先生を知ったのも、その流れ。『いま、人間として』の創刊に伴って楢木さんは径書房に入りました。その(1982年)第2巻に、投稿特集があり、林みかんさんと私たちは一緒にのせてもらった、いわば、「いちょうの実」。きょうだいなのでした。みかんさんは、母親の洋子さんのことを書いておられ(「洋子サン、もう一人のママ」)そこではじめて、私は洋子さんを知りました。その後、楢木くんは独立。編集工房を開きます。論楽社ブックレットを制作していただいております。論楽社の、元気のでるホームページも作成。
 楢木くんは家族をつれて会いに来て下さいました。つれあいの依子さんと論楽社に泊まりに来てくれたのはいつだったか。それから3人の娘さんたちに恵まれ、いまでは長女の芙美香ちゃんは中一。美雪ちゃん(小五)、奈桜美ちゃん(幼年長)のういういしさ。花園のようでした。
 岡本厚さんにも、6年ぶりくらいに会いました。岡本さんは『世界』の洋子さんたちとの座談会をつくった人。庸子さんは岡本さんから、林洋子さんの連絡先をハガキで教えてもらったそうです。岡本さんはいつも明るい。世界を照らす人。そういう一行、の大団円。なつかしさにきざめきます。うれしいね、生きのびたね、ぺちゃくちゃらんらん、ひいらひら。こんどは「もっと静かにできませんか」と怒られませんでした。
 「雁の童子」はすばらしい弾き語りでした。シタールの音色のなかに、すべての時間がこめられています。その中に、洋子さんの声は登場人物の一人ひとりになって、漂います。たとえば童子は、こどもというのではなく、童子のなかに、すべての時間がこめられている老人でもあり、少女でもあるのです。はるか遠く、砂の国での舞台は、いま、ここの「大団円」でもあり、「東京砂漠」でもあるのでした。死者と生者の交差点にひとり立ち、私は風の調べに我を失う心地でした。いや、ひょっとしたら、それこそが、「我在り」やも知れず。
 只今10月28日午前10時半。阿蘇の山田小学校で「なめとこ山の熊」のはじまる時間。「九州ツアー」の第一弾。その会を企画した山田小学校の竹原先生は私の親戚だと、グレッグさんが教えてくれました。きのうグレッグさんと竹原さんが洋子さんを出迎え。阿蘇への途次、話すうち、そういうことがわかったのだそうです。私のことは私は、わからない。いのちは照らしあいつつ、歩みゆくものなのか。
      (上島聖好)
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 行きは飛行機の中から帰りは飛行場から、富士山を仰ぎ見ることができました。
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 林洋子さんの祝賀会で、高木学校の高木久仁子さんがスピーチ。洋子さんは、「倚りかからず」の人。久仁子さんの低い語りに、茨木のり子さんをおもっていたので、びっくり。「お休みどころ」は茨木さんの言霊です。とあとで、久仁子さんにごあいさつ。「いちょうの実」のきょうだいのように。
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 ハンセン病療養所の全生園に宿泊。ちょうどハンセン病補償法に基く裁判で来日していた韓国からの一行と同宿。食堂では熱い記者会見が行われておりました。歴史にあわせるふしぎ。
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 たたずむふしぎ。電車の中で判決をしります。が、どうして別れるのか、日本語が分かりません。
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 10月16日は山の神祭り。地域五軒が集います。男神、女神の白木づくりの神さまが鎮座。沈黙のうちに。サクラ、イチョウ、ヤマザクラ、スギ、ヒノキ、キハダ、カツラ、それらの大樹にしめ縄、五弊で荘厳します。みんな魔法のように縄をないます。私はできません。同じ手とおもえない。

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お休みどころ 2005年10月11日 火曜日

 只今(10月10日3時半)、成尾水上村村長宅から帰ってまいりました。クルマのない私ども3人のために、「迎えに行きますよ、1時に待っとって下さい。」と村長はいい、私たちは乗っかって村長宅におじゃましました。「行政としてできる限りのことをしましょう」と7月に約束。できる限りのことをして下さったのですが、グレッグさんは村長のいう「ALT」(英語圏の人が中・高で英語を教える文部科学省の制度)に応募するのは、もはやしたくありません。というのも、10年前1995年から1997年までの2年間「ALT」で鳥取の西高校に勤務していたからでした。たまたまそのとき、徳永進さんの三女、ナッちゃんを教えていたり、愛生園には鳥取出身者も多くいたりして、あとからみると御縁に従った出会いに恵まれた時期ではあったのですが、「ALTの時代はぼくにとって終わりました」とグレッグさん。帰ってからポツンとつぶやきます。
 9月29日、午後10時、グレッグさんは福岡空港に到着。その夜は福岡の私の弟宅に泊めてもらい、次の日、11/15太宰府で林洋子公演を開いて下さる方々3人と会ったあと、バスで熊本に向かいました。熊本学園大学の富樫教授に会うためです。非常勤講師として学生に英語を教えても1回1万円、水上村から通って来ることは現実的ではない。歴史を教える専任講師の口を探ってみたらということで、いま、待っているところです。(部落差別史の先生を紹介して下さいました。グレッグさんは「日本における差別史」という授業をしたこともあるので。)熊本学園大には、岡部伊都子さんから紹介された松田道雄文庫もあります。水俣学研究もはじまったばかり。10/26には、そのセミナーで、緒方正人さんが話します。グレッグさん、ききにゆきます。翌日、10/27、洋子さんを熊本空港に出迎えます。
 いずれにせよ、居住の資格はやっかいでしょうが、そんなもの。次の日、鶴見俊輔さんの講演をききにゆきました。「現代の風土記をつくってゆこう。そのときのクニは、阿蘇山から、たとえば、見えるクニのような大きさではないのか」と鶴見さん。(10/1の鶴見さんの会に合わせて、グレッグさんはアメリカを発ったのです。私が24歳のとき鶴見さんをマッギール大学にお訪ねして以来、じつに、4分の1世紀。) 

 10/27〜11/15、いよいよ「林洋子九州ツアー」がはじまります。10/27、グレッグさんが熊本空港に出迎えます。10/28、阿蘇の山田小学校を振出しに11/15、太宰府まで計11ヶ所、拠点はお休みどころ。洋子さんはお休みどころの「住人」となります。
 どういうクニ生みができるのか。
 その鍵は、「結」(ゆい)のちからにかかっています。
         上島聖好

 10月2日、山を再び登って、ここお休みどころに帰ってきました。半年の間にはここ大分進んで、畑からのカボチャ、イモ、キューリ、ズッキーニをいただいてよかったととくに思っています。 
 家探しから参加させてもらった僕にとって、今回水上村6回目、お休みどころ6回目で、一番長いのです。来る前、アメリカのハンセン病療養所(ルイジアナ州のカーヴィル。台風の災害はなかったそう。99年閉院だった。今18人がいるそう。)を訪ねて行って、そして92歳の祖父と1ヶ月すごしました。僕の意識の中に、「アメリカ」から「日本」へ来たわけではなくて、チノやカーヴィルなどとのつながりをどう大切にできるかと考えて、決心して来ました。
 ここに来ると、遠い山もとなりの納屋も机から見えます。ここにできることは見付からなくて、大変です。チビの世話、薪づくりの少し、お風呂の火ぐらいですが、お風呂はいつも地獄のようです。興野の鹿児島に行っている水曜日の朝から土曜日の夕までには聖好さんと初めて2人です。朗読によって今度英訳に参加させてもらっている宮田光雄先生の『権威と服従』などを聖好さんと面白くがんばって読んでいます。興野を全身全霊で待っていて、そしている日は忙しい。
 わからないことだらけで、お祈り、よろしくお願いします。(グレゴリー・ヴァンダービルト)

 10月9日には田嶋順子さん、阿部勤子さんと共に、5人で林洋子ツアーの打ち合わせ。3時から夜の10時近くまでかかりました。
 各会場との連絡、移動、宿泊をどうするか。
 洋子さんはかなり大きく重いスーツケース(85×55×34cmほか)3個に荷物をつめて来られます。その宅急便の手配などなど。順子さん、勤子さん、ありがとうございます。

 病院勤務の中で、なぜか母子関係の問題にくりかえし行き当たります。そういえば僕も、母が手のかかる兄(?)のほうにかかりきりで、さびしく、ひねくれてきたのでした。なかなか隠しきれません。
 鶴見俊輔さんのお話も、母子関係の傷についての証言とおもえてくるのです。自己開示の態度に脱帽。(興野康也)

「水平線や遠い山脈に眼をやらなくなると科学はニセ宗教の下僕になったりする」
(「ハマヒルガオ −興野さんへ− 島田等」)

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 トウガン、ズッキーニ、カボチャ、この夏は黄色い波のような花々が、畑に潮騒の音を響かせました。いまでも朝々咲きます。それを、かきわけかきわけ、次の種をおろしています。が、なかなか発芽しません。
 井上石油の山田さんがガスと燈油代の集金に来ました。1Lあたり2円あがったので…と山田さん。「スーパーの袋なんかも上がるそうですよ。」遠くの西の山は植林したて。それを指さし、「リューベーあたり6000円、7000円なので採算とれないということですよ」といいます。お休みどころの林も、間伐の必要あり。この間の台風の見回りすら、していません。遠くに目をやらなくなった私がいる。 
  
「夢をしっかりつかめ
 夢がついえると
 人生は翼の破れた鳥のように
 飛び立てないのだから

 夢をしっかりつかめ
 夢が消えると
 人生は雪の凍りついた
 不毛の荒野になるのだから」(『82歳の日記』メイ・サートン)

「マヤ文化では幼いときに “人生に完全な人生はない”と教えられます。いつも積極的な面と消極的な面の両方があり、どちらも引き受けていかなければならない、といわれます。歴史もそうだし、個々人の人生もそうだ。私たちはまったく知らない人生を夢みるのではなく、毎日、みんなが送っている生活を基調に考えることが必要です。」(リゴベルタ・メンチュウ)

 「なめとこ山は一年のうちたいていの日は、つめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。」(なめとこ山の熊)
 お休みどころは「なめとこ山」の胎内にあり。(上島聖好)
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お休みどころ 2005年9月27日 火曜日

 おきのさんがチビヘビの脱け殻をはためかせています。
「天女の羽衣のようでしょう。」
 真珠色の脱け殻は光に透かすと、淡々と虹色に輝きます。鱗と鱗が反射しあい、虹は虹を呼び、ほのかにささやき交わします。花冷えのころの残照のような気配。
 ヘビの脱け殻をヘビと呼ぶのか呼ばないのか。
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 第1回「お休み講座」は2日で50人の方々がみえました。シャーマン・ドクター、神田橋條治さんの陽の気で、次々と脱皮。忘れ物、言の葉、ゆたかに落花。お休みどころの地は、よろこびました。いい肥料になるでしょう。この秋の落ち葉と混ぜて、堆肥の熟成。
 世の中はたしかに悪くなっています。が、お休みどころは元気です。ここはひっそりと「花ゲリラ」を養うところ。
 「思うに言葉の保管所は
  お互いがお互いに 他人のこころのなか
  だからこそ
  生きられる
  千年の恋唄も 七百年前の物語も
  遠い国の 遠い日の 罪人の呟きさえも

  どこかに花ゲリラでもいるのか
  ポケットに種子しのばせて 何喰わぬ顔
  あちらでパラリ こちらでリラパ!
  へんなところに異種の花 咲かせる」
   (「花ゲリラ」茨木のり子)
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 平和のゲリラ戦をつづけましょう。
 9月28日、午後9時35分にグレッグさんは福岡空港到着。迎えにまいります。わくわくと待っています。これからどうなるのだろう。
 おととい(25日)、阿部さんと浦松さんが来訪。
 2人の大工さんたちは10月半ばから納屋の改修工事を手がけて下さることになりました。浦松棟梁は「伊勢神宮」にも参加要請された腕前なのですが、「天皇」を大切におもわなかったことがバレて、「バイバイ」と言われたそう。(これは「伝説」。ご本人に確かめたわけではありません。)
 1階の土間とおくどさん(お茶用に使われていた)はそのままに残し、隅にちょいと上がれる空間を作る。2階は18畳あるので、大きく板の間に。窓は折々つくりながら設置。屋根はいまのままに、トタン屋根。瓦をふけば、その重さに耐えられまい、ということでした。工事は雪の舞う前に終わりそうです。
 10月30日の林洋子奉納公演をどこでやろうかというと、「納屋のおくどさんの前がいいよ」と阿部ちゃん。11月3日、水俣での公演のあと、洋子さんは石牟礼道子さんと「現代に語りかける宮澤賢治」というタイトルで40分、対談をするそうです。「たったいま緒方正人さんからでんわがあった」と只今の洋子さん。
 先日、岡部伊都子さんから『<中国語対訳>シカの白ちゃん』(岡部伊都子・作 李広宏・訳)が届きました。2003年10月8日、李広宏氏が岡部さんをはじめて訪ねられたその席に私たちはたまたま居合わせたこともふしぎなら、この本に「お休みどころ」が出ているのもふしぎです。
 「こうえんであそんでいた人びとも、お寺や神社や、おやすみどころへ、にげこみました。」(P.92)
 中国語では「おやすみどころ」は「休息的地方」。
 英語では「A Resting Place」(ア レスティング プレイス)。「墓場の意味もある」とグレッグさんは教えてくれました。(上島聖好)


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 2月16日、納屋のおくどさんの前で「二郎祭り」(北御門二郎さんの生誕を祝う集い)を行いました。

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お休みどころ 2005年9月13日 火曜日

 9月10日、神田橋條治さんの第1回お休み講座の日。僕は14:45まで病院勤務でしたので、神田橋さんが車で迎えに来てくださいました。東京から鹿児島空港まで来られた小林美也子さんをひろい、一路お休みどころへ向かいました。
 この日を迎えられ、内心ほっとしていました。9月4〜6日には台風14号が来襲。9月8日には先生の血圧が急に上がり、講座に来られるかどうか危ぶまれたからです。この日もあいにく雨でしたが、それでもラッキーです。
 人吉から水上村まで、時間短縮のため、旧道でなく最近できた産業道路を選んだのですが、神田橋さんの顔がパッとくもりました。気に敏感な方です。旧道にすればよかったと後悔しました。いよいよ山にさしかかると急に顔が輝き、車の窓を開けられます。「もう外の空気のほうがクーラーよりずっと気持ちいい。」
 お休みどころに降り立って、「ここは天と地の気がいい」と言ってくださったので、ほっとしました。
 10日の夕食会は20人、11日の講座には30人集まってくださいました。持ちよりのおごちそうをいただきます。神田橋さんが一人一人の問題に応じるうち、いつのまにか親しい空気、なごやかで物を言いやすい雰囲気ができてしまっていました。僕が惚れこんだ師匠ですので、皆さんに喜んでいただけるのか内心緊張していましたが、ほっといたしました。(興野康也)

 堀田雄次さん(62歳)は電気工事を営む人。丁稚奉公をはじまりに、この道47年。いましがた堀田雄次さんが丹後半島の宮津へクルマで帰ってゆかれました。滋賀県能登川町から参加した逢坂祐至(アイサカヒロユキ)さん(36歳)といっしょに。900キロの道のりが無事でありますように。おにぎり、つけもん、甘い物、お休みどころ名水、いのちのお水をペットボトルにたんと詰めて持って帰ってもらいました。が、帰りつくまでは心配。堀田さんは去年の4月にも1週間ばかり来て、間伐、薪づくり、草払い、小便小屋の解体などを手伝って下さいました。帰りには、止まってしまったお休みどころのボンボン時計を持って帰ってもらい、堀田さんの友人の時計屋さんに修理をしていただいたのです。一ヶ月後、ねじにくっついたサビはきれいに落とされ、生まれ変わって戻ってまいりました。じつは、ふしぎの時計。お休みどころのいのちの音色なのでした。2003年5月、引越したまぎわのこと。この家は先住人の荷物であふれ返っておりました。その荷をあわてて外に出し、数時間後に引越トラックが入ってくるのですが――そうそう引越前夜に私たちは民宿「白水」に到着。早朝、お昼の弁当を作ってもらいここに入るのでした。このたびのお休み講座の宿泊に改築したばかりの「白水」が使われるのも、ふしぎなめぐりです――その「荷」(ゴミ)の中から柱時計があらわれいでた。横になっているのを縦に起こしてみると、あれよあれよ、ボンボンボンと高らかな音を響かせたのでした。「この家がよろこんでいる。」とっさにそうおもいました。「ぼくは音の出るのは好きません。」とおきのさん。しばらくは、家の外の柱にひっかけて「ししおどし」にしておりましたが、それでこわがるししなどおらず。夜中にせつなくボンボン泣く柱時計に情が移り、おきのさんを説得し、家の中に入ってもらったのでした。
 以来、お休みどころのいのちの音となったのです。(上島聖好)

 いつも利用する「分部(わけべ)タクシー」の分部さん(48)も、脳梗塞後の不自由なからだをおして、来て下さいました。神田橋さんのアドバイスに、希望の光。(上島聖好)

 堀田さんとは論楽社ブックレット1号、藤田省三さんの『私たちはどう生きるか?』が朝日新聞に紹介されたとき、それを注文して下さったのがご縁です。省三さんは、ついにその本の印税をうけとって下さいませんでした。「君たちが食べられるようになったら、受けとるよ。まあ、そのときはぼくはこの世にいないだろうけどね。」と省三さん。2003年5月28日、お休みどころが開かれて四週間後に逝かれました。私たちは、省三さんのつながりで、神田橋さんに出会うことができました。
 堀田さんは、来るたびにひとつひとつお休みどころの電灯をともして下さいます。きたない小屋も、あかりがともると、広く見えます。ああ、堀田さんのお仕事はこれなのだとおもいました。自分といういのちの蔵にすみずみまであかりをともし、埋蔵物を汲みつくすこと。一隅を照らす。(上島聖好)

 9/29、いよいよ福岡空港にグレッグさん到着。目前にして、揺れています。アメリカを「捨て」て、日本を「選ぶ」ことに。祈っていてください。(上島聖好)

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 こどもたちはチビと遊ぶ。
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お休みどころ 2005年8月30日 火曜日

 病院勤務の中で目に見えないエネルギーをとられている。そう神田橋條治さんに言うと、神田橋さんは「誰でもいっときはそうなるんだ。そこから本来の自分を取りもどしていくんだ」とおっしゃいました。本来の自分って何だ?
 僕が熱心になる患者さんには、人間不信をもった方が多いと気づきました。ですので、こちらにとっては嫌な感じがしたり、なんくせをつけられたりすることが多いのです。そこを粘って気もちを探っていくと、どこか一点共感の回路ができる。そういうものに僕は憧れているのだと気がつきました。人間どうせわかりあえないんだというあきらめが僕にもあります。共感の回路をみいだすとき、僕の中のあきらめも同時に癒されるようです。
 神田橋さんと出会い、伊敷病院で働くうち、僕はもっともっといろんな人と心を通わせてみたいとおもうようになりました。人間と出会いたい。そういう気もちがふつふつと湧いてくるのです。神田橋さんは僕の中のニヒルな気もちを癒してくださったとおもっています。
 ですので、9月10日(土)、11日(日)に第一回お休み講座の講師として神田橋さんをお招きできることは大きなよろこびです。10日は夕食会、11日は村長さんあいさつと神田橋さんのお話、質疑応答、昼食会です。みなさんこぞってご参加ください。(興野)

 8月2日、水俣学セミナーでカナダ先住民のアンソニー・ヘンリーさんの話をきいた。カリブ族でカミナリという名をもっている。追いはらわれた土地に水俣病がもたらされただけでなはなく、いま、保護区のまわりは森林伐採にあっているという。「森が伐られ、倒され、バリケードをはって守っていても、いずれ自分たちの居住区は切り取られた島になってしまう」と彼は訴える。われらの顔に似た、威風堂々たるチーフである。心を残しながら去った水俣。1975年以来、30年ぶりに訪れたと感無量であった。
 「犠牲を払ってやってきました。発つ2日前16歳の少年が自死。長老はアルコール依存症からくる肝硬変で亡くなりました。以前は、若者は長老に悩みを相談するということが行われていましたが、いまはカウンセラーにとってかわりました。」
 強制移住がもたらした共同体の変容について、おきのが質問。アンソニーさんは苦しげにそう答えた。
 私はおもう。切りとられた島の底の底では、つながっていることを。孤島は、もやい直されるのを待っている光の船であることを。こことそこ、はるか遠くから眺むれば、私たちはつながって、生きている。

 つながっているのだ、モンセラートに。お休みどころ。
 スペインのモンセラートにある大修道院を訪れた時のことです、とダライ・ラマ14世はいう。
 「私はそこで1人のベネディクト会修道士に会いました。その方は私に会うためにだけ、そこに来てくれていたのです。彼は私よりもずっと英語ができなかったので、私は意を強くして話しかけました。昼食のあと、しばらく二人だけで話し、この修道士が修道院の裏山で何年間か過ごしたことを知りました。一人きりのその長い年月、どんな黙想をしていたのかをたずねますと、彼の答えはたったの3語でした。『愛、愛、愛』。なんとすばらしいではありませんか。彼だって、時には眠ったと思いますよ。でも、その長い年月の間じゅう、その修道士はただ愛についてだけ、瞑想していたのです。しかも、言葉についてだけ黙想していたのではありません。彼の目を見つめた時、私はそこに非常に深い精神性と愛を見ました。」(『ダライ・ラマ、イエスを語る』ダライ・ラマ、中沢新一訳)

 林洋子さんの公演依頼に、このお盆は、熊本、阿蘇に出かけました。8月14日、出発。その日、富樫貞夫さんがふいに口にされたことがきっかけで、『わたしの季節』という映画を観ることができました。この1月、才津原さんから紹介され、ずっと観たかった映画。すると、映画上映会の受付に、私の高校時代の英語の先生が立っている。実行委員長なのです。『わたしの季節』のみなもととなった故江口和憲さんは、私の高校の先輩、そして同志社(これも同じ)、かてて加えて水俣出身なのでした。

 映画には緒方正人さんと出会わせて下さった人もでていて、魂消ました。

 11月3日、林洋子さんの、水俣公演決定。ちょうどその日は洋子さんの誕生日。

 カザルスはこう書く。「私の生涯で最も長く続くことになった深い友情を結んだのは、バルセロナで教師をしていた時期(20代そこそこ)だった。私はモンセラートの修道院の修道士たちと知り合いになった。…この修道院は私のもう1つの故郷になった。この修道院は世界で最も驚くべき僧院の1つである。モンセラート、すなわち鋸の歯状の山というのは、僧院が建てられている山の形に由来している。峨々たる峰が、巨大な大聖堂の尖塔のように空に突き出ているのだ。これほど荘厳で、人の心を奮い立たせる山を私は知らない。…聖杯の隠し場だと信じている人も多かった。」(『パブロ・カザルス喜びと悲しみ』)
 朝々、鋸の磨滅したような山々に向い、私は唱える。「モンセラート…」
 そうすると、言の葉が、アンソニー・ヘンリーさんたちの地に届くような気がするのだ。
 目の前の杉の木立は、ろうそくのかがよいにも似て、いっせいにゆらめきたつのだ。(上島)

 「多く愛した人」のちにそう名付けられた、中世ヨーロッパの無名のカソリックの聖人がいたことを、知りました。
多く愛することは、罪ではない。(上島)

 グレッグさんは、いま、ワシントンの国立図書館に旅行中。占領時代のハンセン病政策資料を求めて。やはり彼は学者なのだと実感しました。(上島)

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