お休みどころ 2004年12月10日 金曜日

 12月9日、涙骨賞落選の報が届きました。「なにくそ、涙骨賞め」としばらくつぶやいていましたが、改めておもうのは、あの文章(論文)を書けてよかったということでした。多くの人が助けてくださいました。ワープロ化してくれた石原孝之くん、グレッグさん、岡田昌宏さん、木下美弥子さん、倉本啓子さん、虫賀宗博さん、高原美都子さん…。自分がどう生きてきたか、どう生きていくかを言葉をたぐりたぐり書いていっていたのですから、論とは呼べず論外だったのかもしれません。ただお世話になった方々のことも書けてうれしかったのでした。
 自分の道は精神科医なのだとはっきりおもえたのは、この論文を書けたおかげです。今後はお休みどころ活動と併行できる形で精神科の仕事を探していきます。
    興野康也

 「不知火」奉納能の余韻のさなか、作者の石牟礼道子さんにお礼を申すと「みなさんのおかげです。」その後いただいた葉書にも「奇跡の月の下の舞台をお目にかけられましたのも、皆さまの念力のたまものでございます。」とありました。「月の下という表現がいいね」と話していると、「藤田省三さんの本にそんなフレーズがあります」とおきのさん。そして『全体主義の時代経験』を持ってきます。「『雪がコンコン降る。/人間は/その下で暮らしているのです』と言って嘗て私たちに敬虔さの何たるかを教えてくれた山村の一少年の感受性」を、「我々」はいかにして蘇えらせうるか。「その時の『我々』こそは慎み深い私たちの社会となる。」20代、「山の分校」というホームスクール(塾)を開いて(手伝って)いましたが、そのときつけた文集の名は『雪コンコン』だったっけ。などとかんがえていると、でんわ。石原孝之さんから。「石原くん、ワープロ打てる?」というわけで、涙骨賞の論文ワープロを石原くんに頼んだのでした。時は9月17日。藤田省三さんの命(誕生)の日。
 発表までに何人かの方々から「祈っています」という言葉をいただきました。
 ありがとうございます。祈りのかたちをいただきました。おきのさんが道を「精神科」に定めましたのも、「みなさんのおかげです。」
 それでもなんとはなしに悲しくて、湧き水(泉。お休みどころの飲料水)を見にゆきました。
 ぽこん。ふつふつ。泡うかびます。生きてるね。歌ってるね。よろこびのほめうた。
 仄暗く、ゆたかにたゆたう水の夢。
 よろこびは満々と尽きることはなく、水の中には一輪の火。
     上島聖好
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お休みどころ 2004年12月2日 木曜日

 お休みどころのみごとな看板を作ってくれた大益牧雄さん。大益さんの個展が11月に京都であるときいていましたから、まだかまだかと気になっておりました。待てど暮らせど知らせがない。11月も終わりに近づくころおもいきってでんわしてみると「台風の被害がひどくって1月に延びたんだよ。3日停電、1週間道路不通。」そういえば「涙骨賞」の発表も11月。
 9月15日、岡部伊都子さんからおきのさんに手紙が届きます。あけてみるとハラリと『中外日報』。「第一回涙骨賞」募集と書かれています。中外日報は文筆家として立つ前の岡部さんにとって因縁の人、真渓涙骨(またにるいこつ)氏の興した新聞社。しめ切りは9月30日。それもワープロで。1等賞には30万。よし、これだ。これで納屋の2階を改築しよう。材木を買って、みんなで建てよう。さて、ワープロは誰に? ちょうどでんわをもらった石原くんに。彼の舞踊のようにワープロも軽やかだろう。が、11月になっても梨のつぶて。大益さんにでんわした翌日おきのさんが中外日報にでんわをすると「とりこんでおりまして。たぶん12月くらい…。」やれやれ。
 その翌日、北御門すすぐ・たえ子さんが来訪。お二人が来て下さるのは春以来。それから二郎さんは入院されます。薪、とうがん、うこん、豆腐、石けん、米、大根、あげつくね、しいたけ、抱えきれないほどいただきました。畑の成育にも、にっこり。
 なぜここに漂着したのか。良寛さんの「宮川浜」。2002年3月はじめて二郎さんにお会いしました。「わたしを越えて下さい」と二郎さん。もろてを広げて迎えるその「ようこそ(無私)精神」に打たれました。言行一致の人。
 二郎先生は滝川幸辰氏を介し、河上肇と出会います。河上の晩年3年間に16通もの書簡を交わすのですが、34歳年下の二郎さんに、河上は食料を送ってくれと頼むのでした。二人はたましいの深さにおいて、つながります。「宮川浜」は、先住民(熊襲)の地でもありました。いまは打ち棄てられた地。先住は先獣。みごとに青々と葉を茂らせたうまいサクラジマダイコンをシカはワシワシとくってくれました。「ネットをはりなさいよ。1300円よ」とすすぐさん。さて、どうしたか。図をごらんあれ。
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お休みどころ 2004年11月25日 木曜日

 「風信雲書、天より翔臨す。これを披(ひら)きこれを閲するに、雲霧を掲ぐるが如し。」(空海)
 ここ平谷は、「山地の平地。」
 霧の湧くさまは、深海にいるが如く。
 「雲気の変幻」を見ながら、9月に来られた美弥子さん、岡田さんは玄関の上がりがまちに腰かけてほうやりこ。
 「そういえば、海の中と霧の平谷は似ています。ふっとあらわれ消える樹木は海草のようです。」11月のはじめ、阿部さんとともに来られた宮大工の浦松さんは言います。「いまや10年も住んでいる台所ではないですか。よく使いこまれている。あのときは、このままこの家は朽ちるのかとおもいましたよ。」
 浦松さんは、私たちが越す前、空屋だったころのこの家を見ていたのでした。
 浦松さんは落涙なさいます。
 阿部さんは、2年がかりで柱を削り、いまようやく万端整い、友人たちの手で建前(たてまえ)と相なったのでした。釘一本使わない伝統建築。そのときに、立ち寄って下さったのでした。
 建てられているそのさまを見たいものよと願っていたら、堂園メディカルハウスから黒田さんが来訪。黒田さんはクルマで来て下さいましたので、頼んで阿部さんのところへつれていってもらいました。
 まっ青な空の下、市房山に守られるように建っています。前日に瓦がのったそうで、成年式を迎えた晴れがましい姿。勤子(いそこ)さんの作品、煮しめのうまさ。お家を眺めながら、空の下、舌鼓。「黒田さんは峨眉山(がびさん)に登ったことがあるんですって。」といえば、「良寛さんにそんな詩があったぞ。」と阿部さん

「不知落成何年代
 書法遒美且清新
 分明峨眉山下橋
 流寄日本宮川浜

 知らず 落成は 何れの年代なる 
 書法 遒美(しゅうび)にして かつ清新
 分明なり 峨眉山の下の橋
 流れ寄る 日本 宮川の浜に

 この橋の落成の、年代はわからない。が、橋杭に刻まれた文字の書法は、力づよく美しく、かつ清新である。
 蜀の峨眉山の下の橋杭だということはあきらかである。それが漂流して我が越後の宮川浜に流れ着いたのだ。」

 それは、こういう詩でした。
 市房山のふもとに流れ寄る人と言の葉。
 久しぶりにクルマに乗せてもらうのが、うれしくて、その日は多良木であった全国地名大会の谷川健一さんの話をきき、途次、薪ストーブの蓄熱にレンガ20個を買って帰ったのでした。ほらごらんのとおり。

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お休みどころ | 2004年のお休みどころ | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

お休みどころ 2004年10月26日 火曜日

  事のはじまりは8月28日「不知火(しらぬい)」奉納能の交流会。海の幸山の幸賑わう食卓にぼおっとしていると、長身の貴公子があらわれました。きけば小鼓の大倉源次郎さん。10月15日に京都で小鼓(こつづみ)の会をなさる由。「その日は私の誕生日」とつぶやくと、すかさず「あなたのために奉納します。」「では、うかがいます。」言ってしまって気がついた。バカナワタシ。で、行くことになったのです。お金も、健康もないのによくやるな。でも言ってしまった以上、しょうがないではないか。われしらず口をついて出てしまったのだもの。
 言葉というものは、かみなりのようなもの。
 おきのさんは「神鳴(かみなり)」に魅いられてしまいました。雲の上から落っこちた雷さま。旅のお医者に治療をしてもらうことになりました。こわごわとお医者どの。が、治療の手は、しっかりと雷さまの頭頂にあてられます。
 狂言「神鳴」能「天鼓(てんこ)」、それらにすっかり魂奪われ私の言の葉っぱは吹っとびました。
 にはかに目も耳もはたらきを失って、歩くのがやっと。
 くだんの源次郎さんにお出会いしても、声も出ぬほど。
 「能のことだけを考えています。」舞台で語られたその言葉がしっかりと心に刻まれました。客席のすみずみにまで配られるまなざしは、仕える者のそれでありました。
 さて、おきのさんは「神鳴」効果、大。
 気功治療に目ざめたのでした。
 それまでにも「手のひらから何かがでている」とは言っていました。神田橋條治さんの治療もみせていただいておりました。(じっさい神田橋さんの気功はすぐれています。)私はいよいよ体調がすぐれずに、おまけに、台風で2日間も岩倉の家に足止めになりました。
 で、試しに気功をしてもらうと。
 「神鳴」の雷さまのように、復調したのでした。折しも、島田等さんの命日。
 島田さんからの贈り物だったかもしれず。

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 てくてくと45分の山道を歩いて帰りついたのが23日夕刻。台風で樋は吹っとび、畳は砂地。地区5軒にまずは「帰郷」のごあいさつ。チビもよろこびます。ついでに24日(日)の山の神祭りの手順をききます。お赤飯はムツコさんに、御幣はケサヨシさんに、竹はスエオさんに、料理はフミエさんに、ワラは……。みなさんにたすけてもらうことにしました。ことしはうちが「宿」。みなさん(9人)を接待する番。毎年近くの商店で料理を頼むそうなのですが、「ことしは孫のところに行くのでできない」と寸前になって断わられたのでした。それも台風の日京都から確認の電話した折のこと。しょうがない。素のままでゆくか。
 当日、ほらごらんの通り。
 チビもおもわず身をのりだして、愉快な歌の会になりました。みんなで童謡を歌ったのでした。


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お休みどころ 2004年10月8日 金曜日

  9月27日にお休みどころを訪ねてくださった(上島注:つれあいの義之さん、娘さんの暁子さん、一家3人でみえました。)倉本啓子さんから劇のチケットをいただきました。『ピエール・パトラン』。フランス中世の笑劇。10/1、10/2と2晩劇を見て、僕はそのまま7日まで堂園実習、というつもりで聖好さんと出かけました。
 出発してすぐから聖好さんが発熱。(上島注:熱はほとんどなく、たんに体調をくずしただけです。)なんとか劇を見たものの、堂園(どうぞの)メディカルハウスの霊安室で聖好さんは寝たきりとなりました。
 3日に聖好さんが帰りつき、やれやれ。とおもっていると、4日に友人の伊左次(いさじ)悟くん(医師)から電話。「いま博多。明日会いにいく」というのです。
 せっかく伊左次くんが来てくれるのだから、お休みどころを見てほしい、とおもいましたが、僕は鹿児島。あきらめて、いっしょに鹿児島での活動をみてもらうことにしました。
 伊左次くんは岐阜県立病院で研修中。7日の夕刻までに帰らないといけません。(上島注:医学に行き詰まりを感じていた伊左次くんは、神田橋條治さんに会い元気づきました。堂園メディカルハウスのようこそ精神にも、励まされてたそうです。)5、6日、堂園と神田橋先生を見たあと、伊左次くんが言いました。明日レンタカーを借りてお休みどころへ行こう。フェリーで桜島にわたってドライブしよう。
 翌朝7時すぎに堂園出発。プリンセスマリン号で海を渡り、溶岩原から錦江湾(きんこうわん)へと車で走りました。お休みどころの「お守り」(上島注:お地蔵さん)に溶岩ひとつ車に積み、ゆっくり水上村へ。12時前に着き、3人でお昼ごはんをいただいて。1時すぎ伊左次くんは出発していきました。
       興野康也

 10月1日、神田橋先生の治療を見せていただきました。患者さんに無心に薬を合わせるその後ろ姿。気功をする立ち姿。「先生に太古の風を感じます。」とおもわず声を発すると、くるりと振り向いて「その言葉、あたっていないこともないんだ。ぼくは病気ではなく、命そのものを元気にしようとしている。」と先生。
 「いまのわたしに一体何ができるのでしょうか。」ウツの女性の重たい訴えをきいたあと「あなたはまだあきらめていない」とポツリと先生。彼女の顔がパッとあかるくなった。
 芸能としての医。芸術としての治療。
 こおったいのちを天ノ岩戸からひきだすアメノウズメにも似た技。先生は桜島に似ている。太古の悲の山、火の山に。首のあたりに雲と風をなびかせている。そんなことを、おもいつつ『メートル・パトラン』を観れば、これもまた、愉快。ウソ八百大言の弁護士ピエール・パトランの歌と踊りに笑いました。そう。「ビンボーは福の神。」パトラン先生のいうとおり。フフンランランと眠りにつきました。
 さて、翌日から起きられません。旅先で寝つくとは。しょうがない。堂園さんに甘えさせていただこう。
 5F霊安室(いちばんいい場所を霊安室にあててあります。ここにいつも泊めていただくのでした。)の隣には天国の池とよばれる小さな池があります。窓ガラス一枚隔てて、黄泉(よみ)の国から水の国。
 そこに住むカメがコツコツと窓をたたきます。
 キセキレイがやってきて、ツイッと石の上に止まります。
 きれいな水のところにしかいない鳥なのに、どうしてここに。ぼおっと考えていると、堂園文子さんが、アイスノンを持ってきて下さいました。(あつい葛湯もいただきました。) 霊安室。すてきな命名。まさに、霊の安らうところ。
 「不知火」奉納能にも、遊ばせてもらったな。能のはじまる直前、舞台の上にサギが一羽とんできたとおもったら、ハタと止まり、ツイと身をひるがえし、帰っていった。
 そして、つづいてもう一羽。同じふうにして。
 はじまりを告げた。
   みなさん、この世は夢舞台。
   とくとお楽しみ、ご覧あれ。
   いえいえ、ともに、舞い上がれ。
 あとはただ、美しいものがたゆたゆと舞って、去っていった。
 静寂のあとに、残されたものは、十三日の月あかり。
 夢だったのか。私は何を見ていたのだろうか。それにしても、この私って、誰だろう。
 「生きよ。それだけが伝わりました。」交流会の席で不躾にも梅若六郎さんにそういうと、梅若さんはぐいっと目を見開いて、ちからをこめてこう言った。「生きねばならないのです。」
 霊安室に漂っていると、コホンゴホンとからだの奥でしぼりだされるような咳の声がきこえてきました。肺がんのKさんの咳の音。生きよと響いてまいりました。
    上島聖好
お休みどころ | 2004年のお休みどころ | 13:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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