お休みどころ 2003年12月15日(月)

 12月の6日、7日と、こちらに来てからはじめて熊本に行ってきました。京都の岩倉にいるときにお世話になった鶴見俊輔さん(哲学者)が熊本に講演(熊本近代文学館の谷川雁展の催しとして)に来られると知り、81歳の鶴見さんがはるばる来るのに、こちらが出向かぬ手はない、と聖好さんが意を決したのでした。またちょうどそのとき友人の大益牧雄さんの漆器展も熊本でありました。熊本までは意外と遠く、最寄りのバス停から1時間20分(片道1210円)と1時間25分(片道2000円)のバス2本を乗りつがないといけません。最寄りのバス停まで歩いて40分ほどで、坂がきついので帰りはたいへんなのですが、行き帰りとも近所の末雄さんが車で送ってくれました。こちらに来て、近所の方たちの助けのありがたさを、よく感じます。
 午後1時30分の講演までしばらく間があったので、会場付近でお昼を食べることにしました。熊本の都心なのに食堂がなく、15分ほど歩いて、「美角(みすみ)食堂」というすごく小さな古い食堂を聖好さんが見つけました。お客さんは僕たち二人だけで、80歳のおばあさんが下駄に割烹着姿でやっています。4つほどのメニューの中から日変わり定食500円を頼むと、切れているとのこと。何ができますか、と聖好さんが尋ね、結局550円のチャンポンふたつを頼むことにしました。
 おばあさんはとてもゆっくりのペースで調理し、講演の時間が迫ってあわてたのですが、話すうちおばあさんが病気での苦労を語りだしたり、ごはんをごちそうしてくださったり、ふしぎと打ちとけ、別れぎわにはおばあさんは目に涙を浮かべていました。片側3車線ある太い道路のわきの小さな食堂なのですが、一歩入れば別時代の空間。その落差がふしぎでした。
 講演会場は自然公園(水前寺江津湖公園)の一角にあり、川のほとりを散歩することができたのですが、生い茂る芭蕉の木や鳥たちのくつろぎを見ていると、やはりここがいつどこなのかわからなくなります。人工ではなく天然の生命世界を味わうのに、なにも広大な敷地は必要でなく、小さな一角でいい。そんな気がしました。
 谷川雁さん(1923〜1995、熊本県水俣市出身の詩人、教育活動家)と僕は直接会ったことはありませんが、人がいきいきと生きるということをクレイジーに考え模索した人のようで、「おい、元気か」という雁さんの呼びかけが会場のそこここから聞こえる気がしました。雁さんの探究のもとには老子(古代中国の思想家、何物にもとらわれない自由で伸びやかな生き方を強調)がある、と講演の中で鶴見さんは強調していました  。流れる川の水や赤子のように何物にも逆らわず柔らかく生きることを説いた老子と、大胆過激な探究を繰り返した雁さんとでは全然別なようですが、生命力の十全な発露を目指すという意味では共通しているのでしょうね。
 そういえば「お休みどころ」の名付け親の茨木のり子さんも老子を大切にしておられ、以前「老子研究会を作りましょう」といっしょに話したことがあったのでした。まず身のまわりに天然自然の生命力を養う小さな休み所をつくる。こういう生き方をめぐって、人の輪ができそうです。
 ここ平谷のお休みどころは、古民家ゆえ、やはり寒いです。冬仕度もすこしずつ整えています。3部屋とも、畳をあげて新聞紙などを敷きつめ、下からのすき間風をよけるようにしています。床の間から吹きこむ風がひどいので、聖好さんの案で障子紙を壁いっぱいに押しピンではりました。火鉢には一日中火をいれています。他には灯油ストーブひとつを使っていますが、部屋の空気全体をぬくめるという発想では、いまのところあたたまるのはむつかしいようです。結局着こんであたたかくするほかない、と聖好さんは疲れきって言っています。土間が特に寒く、水も冷たいので、ぬるま湯が欠かせません。いまのところは七厘(しちりん)に小枝をくべて、お湯をつくっています。
 北御門さんからいただいた秋ジャガの種イモ10個を家の前の元畑に植えていますが、葉はシカにみな食べられてしまいました。じきに霜で枯れると聞いていましたが、茎だけになってもやはり葉を出し生きようとしています。それを見て聖好さんが納屋に散らばっているモミがらなどをまいてあげたのですが、そのせいか少し長生きしてくれたようです。12月2日、北御門すすぐさんとたえ子さんが来られた折、はじめて掘っていただきましたが、経9cmと12cmほどのジャガイモがふたつ出てきました。隣人の椎葉袈義さんからは、「まあウズラの卵くらいのジャガイモだろう」と言われていましたので、寒さの中よく実をつけてくれたと感謝しました。
 ちょうど今日、グレッグさんから本が届きました。“the Sabbath”。お休みの意。お休みを生きる大切さが説かれています。
                     興野康也

 人生というのは、それ自体ひとつの旅路。そのなかの旅もまた、文字通り、旅のなかの旅。なので、旅で出会うひとつひとつが大きな旅の象徴であるのでした。今回ふらりと入った「美角食堂」もふしぎな場所でした。
 「むかしはよかったですよ。このへんには小さか店もいっぱいあって。住み込みで人をやとうておりました。世の中はおかしかですね。人の手のほんなこついるごてなると、一人でせにゃならん。道路ば拡するちゅうていまのところに移りましたが、車ばっかり通って、人は来ん。ほら、若か人はあきれて見よんなはる。掃除がゆきとどきませんで。息子さんでしょ?(と、おきのさんに)。よかですなあ。よか息子さんで。若か人は腹の減る。ごはんはごちそうしますけん、食べなっせ。梅干も。ことしは色よう漬かりました。シソのアクば、ようもんでぬいて、それから、一週間ばっかし重しをして。これが秘訣ちゅうたら秘訣ですかなあ。入退院しながら、漬けましたけん。おしっこの袋ば、つけとりますと。平成3年からですなあ。きのうも病院に行ってきましたと。血液検査の再検査しろちゅうことで。おくさんはしあわせですなあ。こがんよか息子さんのおらるっで。」
 美角のおばあさんの作ってくれた味の濃いチャンポンを、汗をかきかきいただいて、「お元気にしとって下さいね。きれいな笑顔がいい」と手を握って別れたのでした。店の外まで見送って来て下さいました。深々と、美しいお辞儀の人。
 「美角食堂って、一角を美しくするっていうことですねえ。いま、書いていて、わかりました」と、これを書きながらおきのさん。
 私たちがしたいことも、ひょっとしたら、それ。
 ワン・スポット・オン・アース。(藤田省三先生の言葉。)
 谷川雁さんの亡くなる二年程前、黒姫の谷川雁さん宅に一泊泊めていただいたことがあります。雁さんの話を途中でさえぎることができず、「帰ります」と言い出しかねているうちに、最終列車をのがしたのでした。
 「もっと狂って生きろよ。おれは狂って生きたぞ。何もないものにはそれしかないではないか。川の上流の仕事をしろよ。上流の仕事は、食べられないに決まっている。そんなものではないか。」と雁さん。
 上流。源流。溯上への旅。
 と、こうして、球磨川源流まで辿りついたのでした。

「   お休みどころ           茨木のり子

  むかしむかしの はるかかなた
  女学校のかたわらに
  一本の街道がのびていた
  三河の国 今川村に通じるという
  今川義元にゆかりの地

  白っぽい街道すじに
  <お休みどころ>という
  色褪せた煉瓦いろの幟(のぼり)がはためいていた
  バス停に屋根をつけたぐらいの
  ささやかな たたずまい
  無人なのに
  茶碗が数箇伏せられていて
  夏は麦茶
  冬は番茶の用意があるらしかった

  あきんど 農夫 薬売り
  重たい荷を背負ったひとびとに
  ここで一休みして
  のどをうるおし
  さあ それから町にお入りなさい
  と言っているようだった
  誰が世話をしているのかもわからずに
  自動販売機のそらぞらしさではなく
  どこかに人の気配の漂う無人である
  かつての宿場や遍路みちには
  いまだに名残りをとどめている跡がある

  「お休みどころ……やりたいのはこれかもしれない」

  ぼんやり考えている十五歳の
  セーラー服の私がいた
  今はいたるところで椅子やベンチが取り払われ
  坐るな とっとと歩けと言わんばかり
        *
  四十年前の ある晩秋
  夜行で発って朝まだき
  奈良駅についた
  法隆寺へ行きたいのだが
  まだバスも出ない
  しかたなく
  晩夜買った駅弁をもそもそ食べていると
  その待合室に 駅長さんが近づいてきて
  二、三の客にお茶をふるまってくれた

  ゆるやかに流れていた時間

  駅長さんの顔は忘れてしまったが
  大きな薬缶と 制服と
  注いでくれた熱い渋茶の味は
  今でも思い出すことができる 」

 「お休みどころ」の看板の文字を、茨木のり子さんに頼んでおりました。病いとともに暮らしておられる茨木さんにお願いするなどあつかましい話ではあったのですが、言の葉の種は私のうちに蒔かれ、ぐんぐん伸びてゆくのですからいたしかたなく。ごめんなさい。そうして、十一月の終わり秋の名残りの風に乗って届きました。
 その日の午後、納屋の中の大きな竹かご(1メートルの深さです。何をいれたのでしょうか。お茶の葉かなんかでしょうか。)を修理して、道沿いの木の葉の吹き寄せに、落ち葉拾いにゆきました。落ち葉を集めて、ジャガイモのふとんにしようというのです。とことこと歩いていると、郵便配達の三重ちゃんのクルマが止まって、「はい」と手渡されたのが「お休みどころ」(の入った荷)。
 おきのさんは「お休みどころ」(荷物)、私は落ち葉の竹かご、ともに持ち、もと来た道を帰ってゆきました。と、櫟の木立ちから「お休みどころ」の屋根が夕日を受けて光ります。
 あ、ここの屋根は煉瓦いろ。「色褪せた煉瓦いろの幟(のぼり)」はないが、色褪せた煉瓦いろの屋根はあったのでした。
 雨が降ると、土間の食台に、点々としみのあと。
 雨もりです。
 そんな屋根。軒のあいだには丸めた新聞紙。風よけです。段ボール一箱分の新聞紙を使い、冬仕度をしました。これで新聞紙も終わりね(新聞をとっていません)といっていたら、ありがたくも新聞紙を届けて下さる方がいたり。生かされております。古来からお寺、神社、修道院、お休みどころの類いは「寒い」がつきもの。なんとか冬に入りました。きょうは雨です。
                    上島聖好

お休みどころ | 2003年のお休みどころ | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

お休みどころ 2003年11月15日(土)

 家の中で火を使う機会が多くなってきました。かまど、いろり、火鉢に加えて、七厘(しちりん、聖好さんが郵便配達の三重子さんに頼んで取りよせる。1785円)も使っています。朝、おみそ汁の具をコトコト煮たり、煮豆を作ったりするのには、七厘のやわらかい火がちょうどいいようです。ガスのように立ち消えの心配もありませんし、吹きこぼれにくいようです。七厘や火鉢に使う木炭も、聖好さんが三重子さんに頼んで水上村の樫炭(かしずみ)を取りよせてもらいました(10kg1500円、2kgサービス)。10月23日に取りよせて、11月13日現在で3分の1程しか使っていませんので、おもいのほか持ちます。
 木炭をおこす着火剤に消し炭(けしずみ、かまどでできた燃え残りの炭)を使っていますが、これがけっこういります。当初は生焼けの消炭(地元では「ねむ」と言う)をよく作り、煙が出ていましたが、炭を手で折ってみれば生焼けかどうかすぐわかると気づきました。たき木の太さもかまどの大きさに応じて適切な太さがあるようで、僕が太すぎるたき木を使っていたのも生焼けの要因のようです。10月25日に訪ねてくださった井上美貴子さんと齋藤ひとみさんの二人に、実際にかまどで火をおこしてもらい、焚き方を教えてもらいました。
 火の使い方など、生活の基本的なことをいろんな方に尋ねると、よろこんで教えてもらえることが多いです。例えば10月13日、10月14日に訪ねた岡山県のハンセン病療養所・長島愛生園でも、そうでした。阿部はじめさんや北島かね子さんが、「このことを若い人みんなに伝えたい。」と言いながら、堰を切ったように暮らしの知恵を話し出されたのにはおどろきました。海水を焚きつづけて塩をとり、塩を布袋につつんで灰の上に一晩おいておくとにがりが抜ける。ごはんを炊いたあとの羽釜に翌日のたき木をいれて乾燥させておくとよく燃えた。など、はじめて聞くことばかりでした。宇佐美治さんの恩賜記念館のそばから良質の粘土が取れ、それで焼きものもつくったそうです。地面に穴を掘って炭を焼く焼き方など、基本的な技術は先輩から教わったと阿部さんは言っておられました。
 また愛生園の金泰九(キムテグ)さんからは、農家の長男として過ごした韓国での幼少時代のことを聞けました。主な仕事は牛の放牧だったそうです。草地を求めて1時間ほども牛の背に乗って山に入っていき、焚きつけの松葉を拾ったり、草刈りなどもしたそうです。牛の背で歌ったヤムサンドゥという歌の一節も聞かせてもらいました。火や水や食べものの話から、いろんなおもしろい話が聞けます。
 長島愛生園でも、ここ球磨地方でも、手ぢかにあるものでなんとか暮らさないといけなかったことは同じで、そうしたとき創意工夫が生まれるようです。
 古屋敷に住む野口一義さんが10月21日に訪ねてくださったときも、ベニヤ板(元天井、「お休みどころ2003年10月6日(月)」を参照)で柄の抜けたツルハシを直してもらえました。この家の先代の借家人の人が、経30cmほどのスギ丸太をたくさん畑に捨てていたのですが、それをクサビで割ろうというときに、大きなハンマーがなかったのです。そこで野口さんは納屋からこわれたツルハシを見つけ、サッサと直してくれたわけです。ベニヤ板は焚きつけに使うゴミとしてしかおもっていなかったので、そのひとかけらを修理道具がわりに使われたことが意外でした。
 野口さんに実際にクサビを使ってたき木を割るやり方を見せてもらってから、太い木も割れるようになりました。野口さんはツルハシをふり回してクサビに正確に当てていましたが、僕は小さなゲンノウ(かなづち)を使ってすこしずつ割っています。木を割れることでずっとたき木づくりが楽になり、こういう道具のありがたさを実感しています。大家さんの平川ハナ子さんの夫の友重さんが古い道具を集めるのが趣味だったそうで、そのおかげで納屋の中からいろんな道具がでてきます。
 能登川町立図書館からの本の宅急便(上島注:納屋にコウモリがいたのでした。昼間ぶら下がって休んでいるコウモリに遠慮しいしい納屋に入っていたのですが、あるとき末雄さんが「あら、コウモリ。珍しかなあ」と近くに寄ったとたんどっかへ行ってしまいました。というわけで今回はコウモリについての本をおねがいしました)の中に、『寒山(かんざん)の森から』という山暮らしの本があり、火の焚き方についてとても勉強になりました。火を焚くコツは、なるべくいじらずに火自体に燃え上がってもらうことだそうです。これは実際にやってみて納得できます。たしかに、なんとか火をつけようともがくうちにかえって消えてしまう、ということがよくありました。もうひとつのコツは、火を穏やかに燃やし、大きくしすぎないことだそうで、焚火の場合は木を井桁(いげた)に組んだりするより、ただ平行に並べておけばいいとあります。近所の森山末雄さんにいろりでの火の焚き方を教わったときも、やはり平行に並べて木口(こぐち)から火をつけると言っておられました。
 いちばん役に立ったのが、本の中に「火床(ひどこ)」という言葉があったことです。それまで僕は燃やす焚木ばかり眺めていたのですが、焚木よりも熾火(おきび)のベッドができているかどうかのほうが大切ではないか、と火床という言葉からおもえてきたのです。熾火であたたかい環境をつくり、その上に焚木をおけば、自然と燃えていくようです。(その後、『広辞苑』で火床という言葉をひくと、熾火のベッドというような意味はなかったですので、僕のおもいこみだったかもしれません。)
 七厘(しちりん)の炭火は、うちわや火吹き竹を使って火力を調節するのがいいと読み、さっそくうちわを使ってみました。ですが、かまどのすぐ横に七厘を置いていますので、かまどの灰が飛んでしまいます。そこで、聖好さんの案で、火吹き竹がわりにFAX用紙の芯棒を使ってみました。ただの丸いつつなのですが、吹いてみるとけっこう息がしんどいです。火吹き竹は先の方の穴が小さくなっているのでは、としばらくして気づきました。
 この家には稲穂を干すための長い竹竿があり、納屋に竹を切るノコギリもあったので、火吹き竹を作ろうと切ってみました。ところが長年月干しっぱなしだったせいか、割れ目がたくさんはいっていて、息がもれます。困ったので末雄さんに相談すると、翌日には末雄さんが作ってきてくれました。
 末雄さんはなんでも作る人で、畑もするし、シイタケも育てます。たくさん出たシイタケに感嘆していると、家の中にもっとめずらしいキノコがあると末雄さんが言います。何だろうとおもうと、なんと木彫りの男根女陰像なのでした。木肌の形そのままにいかしたもので、3組もあります。こういうものを山の神さまに供えるところもあると読んだことがありましたが、それにしてもなんでも手作り。人吉にいたころ、ストリップ劇場の女の人が見せてほしいと頼みに来たという、末雄さん自慢の作なのでした。
     興野康也

 「聞きしにまさるアバラ屋ですね。問題発言…『雨月物語』に出てきそうな…。その後少しずつととのってきていますか?写真を見たら、あまりきれいになる前に行ってみたいな、と思いましたよ。なんだか寒さもきびしそう…。」若い友人、乃亜ちゃんからのおたよりに、笑いました。写真とは、北御門すすぐさんのホームページ。ありがたいことに、お休みどころの写真をのせてくれているのでした。
 ありがたいといえば、10月25日(土)すすぐさんたえ子さんの援農に行く道すがら、福岡から訪ねて下さった齋藤ひとみさん、井上美貴子さん。北御門二郎先生の20年来の読者。「月に三、四万円で暮らす者たちがいる」ときき、「霞を食って生きている」というその「霞」を見に来られたのでした。
 そのときはまだ天井には、ブルーシート。畳も上げられており、まるで、洞窟。洞窟に、あかあかと火。とは、あこがれの住まいのひとつではあるのでしたが、いざそれを突きつけられるとたじたじ。
 11月1日、興野の高校時代の日本語の先生が来られるまでには何とかしたいとおもうのでした。寺井治夫先生は16歳の興野を論楽社の講座につれてきてくれました。「半ば内親の端くれにいる者のように、一度顔を見てこなければ」と日帰りで来訪。(前日、大阪から八時の夜行列車に乗り、朝九時、人吉着。そこで、レンタカーを借り、十一時、お休みどころ着。三時帰路につく。)
 11月1日、山に上って半年の日。お昼には寺井先生、祐子さんを迎え、興野さんの炊いた栗ごはん、おみそ汁と、つつましい宴の座。畳は敷かれ、ブルーシートも無事、役目を終えたのでした。
 この『お休みだより』の裏紙は、寺井先生が送って下さいました。
     上島聖好

お休みどころ | 2003年のお休みどころ | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

お休みどころ 2003年10月6日(月)

  9月14日の夜から大砲のような音が聞こえはじめました。はじめは、誰かが猟をしているのだろうか、あるいは、近くの町でイベントがあって花火でもあがっているのか。など考えていましたが、その後毎晩つづきました。夕方6時ごろから、朝は9時ごろまで、3〜5分ほどの間隔。突然の大きな音なので、からだにひびき、聖好さんは眠れなくなってしまいました。たまりかねて役場の石橋さん(以前ゴミ問題の折、知りあった。『お休みどころ2003年6月13日(金)』登場)に電話すると、米の収穫前の獣よけとのこと。対応は親身で、その夜は銃声も小さくなったようにおもえたのですが、気のせいでした。
 9月19日、再度石橋さんに電話することにしました。もし必要なら「上島が不整脈だ」と言ってほしいと聖好さんから頼まれたのですが、案の定、石橋さんは板ばさみになって困っておられ、「直接本人(銃声の主)に伝えるとあれなんで、側(がわ)からせめてみます」とのこと。そこで「突然の撃音を聞くと上島の脈が乱れる」と一応言ってみました。あまり期待していなかったのですが、なんとその夜から銃声がなくなりました。
 一週間後、近所のSさんと2人で歩いているとき、Mさんの田んぼのわきを通りました。「稲の刈り取りが早か。まだ青いのが混ざっとる」とSさんが言います。そのときは気にもとめなかったのですが、よく聞いてみると、役場からMさんのお兄さんに空砲を止めるよう連絡があったそうです。シカやイノシシが来ないうちにと、あわてて稲を刈りとった由。Mさんにはお休みどころの修理を依頼してひどい目に遭ったのですが、またも犯人はMさんだったのでした。とはいえ、田植えを僕も手伝わせてもらいましたし、Mさんの妻のFさんにはよく車で拾ってもらったり、お世話になっていますので、聖好さんの案で、翌日お菓子を持って侘びに行きました。
 それにしても、Sさんが事の顛末をつぶさに知っておられ、このあたりの情報伝達力には驚かされます。ただ、けっこうウソ情報も混じっているようで、聖好さんがあんま師とか、僕が剣道七段だとか真顔で尋ねられるとおかしくもあります。
 Sさんはここよりさらに山奥で生まれ育ち、中学校に三日しか行かず山師を続けてきた人で、なんでも自分でつくってしまう人です。僕が納屋で見つけた錆びついた鋸を使っているのを見かねて、鋸の研ぎ方を教えてくれました。鋸の刃は右向き左向き右向き左向き…と交互についていて、さらによく見ると右向きのものは右に、左向きのものは左に倒れていることがわかります。刃を倒すのは、木を切るときに鋸が木にはさみこまれてしまわないようにする工夫のようです。とにかく刃の研ぎ方と角度のつけ方が鋸の命で、これ次第で切れ方が決まってしまうそうです。鋸で山仕事をしていたときは、毎日目立て(刃を研いだり倒す角度を調整したりすること)をしたと聞きました。
研ぎ方
 お休みどころの北に梅と柚子(ゆず)の木がありますが、檜(ひのき)の木の影にあるので実はならないだろうと聞いていました。大家さんも実のなる木を優先することを望んでおられたので、この檜はいつか切れたらと聖好さんと話していましたが、研ぎ方を教わったのを機に、チャレンジしてみることにしました。僕自身はSさんの助手をしながら切ろうとおもっていたのですが、なりゆき上、自分で切ることになってしまいました。檜の木のまわりには家や小屋、他の木などあり、倒したい方向に倒れてくれないとかなり困る状況でした。聖好さんが、お神酒(みき)を奉げてくれ、そのあとまわりの茶の木などを整理して伐りにかかりましたが、なかなか鋸も進みませんでした。万が一家の方に倒れたらどうしようと思いずっと緊張しっぱなしです。休憩しながらかなり時間をかけてどうにかこうにか、倒すことができました。檜の高さは10m以上あり、膝の高さで直径が21cmほどでした。
切り方
方向
 井本伸廣先生からいただいた『山に暮らす』という本のなかに、木を倒したあとには新生を祈って、切り口に若芽をさすとあります。聖好さんが茶の木の若芽をつんできてくれました。この本の中に「木を伐る瞬間は気分のいいものではないな。生命ある木を伐ることは罪深いことだ。…が、山を守るために木を伐ることもある」という山師の言葉が紹介されていますが、自分自身がヒヤッとするおもいをすると、一層身にしみます。
木
 Sさんから教わったことのもうひとつに、いろり(このあたりでは地炉(じろ)と言う)の使い方があります。東の部屋にあるいろりは炉の壁(セメントと土)がこわれ、床下と風が行き来している状態でした。聖好さんは粘土で修理してみようとおもいついたのですが、森山さんに教えてもらって粘土の採取場所(家から100m。大家さんの山肌)がわかり、納屋の古藁を2cmほどに切って練り、ぬることができたのでした。ただ、粘土が乾くうちに縮んで、いまではヒビだらけ、本来は藁をまぜてから1ヶ月ほどおき、発酵させてからぬるそうです。
いろり
 Sさんからは自在鉤もいただきました。彼は物づくりが好きで、いろりはないのに3つも飾り用の自在鉤をつくったのでした。ひとつ分けていただけませんかとおねがいすると、飾り用では重い鍋をかけるには弱いので、といって頑丈なものをつくってくれました。
 東の部屋のいろりで小枝を焚いてみると、やはり天井板がはってあるので部屋に煙がたちこめます。Sさんからじょうご形に天井をあけている人がいると聞いたこともあり、天井の一角をはがしてみました。(この天井はベニヤ板でできたペラペラのもので、手ではがせます。)一角をはいでも排煙がさして変わらないので、もうすこしはいでダンボールでふたをつくろうとしたのですが、実際置いてみるとふたもうまくはまらない。聖好さんがダンボールにきれいに切り貼りしてくれた和紙もビリビリになってしまいました。そうこうしているうちに、天井をみんなはぐことにしました。そして、引きはがしにかかっているあいだ、天井裏に積もった何十年分かの埃が、畳の上に落ちました。屋根裏から冷たい風はくるし、ススは舞うしで悲惨なことになりました。
 もう手に負えないということで、北御門さんの近所に住む大工さん(阿部雅弘さん49才)に来てもらいました。意外にも大工さんの提案は、屋根裏のそうじをし、すき間うめをして、天井は開けたままでどうか、というものでした。ブルーシートでほこりが部屋に落ちないようにし、天井裏のそうじにかかります。冬がもう来ますが、この状況はどうにかなるのでしょうか。ま、やってみます。
            興野康也

 五月一日、山に上ってしばらくすると猛烈に右腰と右足がしびれたようになってきました。引越で疲れたのでしょう。ここ十年程、月一回論楽社ではヨガの先生に来てもらい、ヨガ教室を開いていたこともあり、毎日少しは体をほぐすようにはしておりましたが、痛みはなかなかがんこ。梅雨と重なり、湿気に弱い私は小さな発熱が続きました。見かねて、興野さんが「野口体操」を教えてくれました。実際彼は野口体操を本でしか知らないのですから「野口体操」というより「興野体操」といった方がいいのでしょう。
 ゆっくりとからだを揺すっていると、いままで固くてなかなか開かなかった股関節もしだいにやわらかくなってきました。
 そうして痛みもやわらぎ、草ひきも楽にできるようになりました。
 が、「ノミ騒ぎ」で外に出(られ)ない日々がやってきます。
 しかし、自然というのは、まかふしぎ。
 八月の二十日ころからふっつりとノミは姿を消し、最後に足にくっついたのが九月十日。「お休みどころからの手紙の中からノミがとびだした」ときいたのがウソのよう。
 夏を経て、私たちはこの地に落ち着いたようです。
 「落ち着く」とは「落ちて着く」。(『野口体操 感覚こそ力』羽鳥操著、春秋社)「地球に生きるものの動きは落ちて着くことが基本」だそうです。
 「重さによって地球と一体化する他に、究極の強さも安らかさもありえないと、僕は考えています。『したたか』を大事にしたいんです。したたかは、決して否定用語ではありません。したたかとは、『下が確か』のことなんです。土台をしっかり感じ取っている。地に足がついていることなんです。『確か』とは『手+然り』です。自分の実感で納得していることなんです。『したたか』とは、地球との一体化によって生まれる強さ安らかさのことを言うんです。」(同上)
 さて、ヒノキを伐り、ずいぶんとしたたかになったかにみえたおきのさん。あるとき、「天井のベニヤ板を一枚はがしていいですか。」「いいよ。どうせヘニャヘニャの板だもの。」と私。
 次の日、「一枚では煙は上にはゆかないようです。もう一枚いいですか。」
 ずいぶんゴミが天井から降ってきましたが、がまんしました。ベニヤ板二枚分のダンボールを集め、それに和紙をはり、「これで茶室のようだ」とうれしくて、「このダンボールで二枚はいだ場所をおおってちょうだい」と託しました。しばらくして見にゆくと、はりつけた和紙はぼろぼろにひきさけ、天井からダラーとうらめしげにたれさがっておりました。ゴミはさらに落ちておりましたが、もう夕方。夕飯の仕度もあるのでいそいで片付け、「あしたはこのダンボールを裏返しにして天井においてちょうだい。破れた和紙などみたくもない」といいました。
 次の日、彼はいつものように上機嫌で、屋根裏に上ってゆきました。
 ガラガラ。カッーシャン。ピシーン。すごい音がしましたが、私は洗濯物をとりこんだりふとんをしまったりしておりました。
 「できました。」とおきのさん。軽やかに。
 いそいで見にゆきました。どきどきしながら
 青畳−毎日畳をふきそうじ−の上には、ひしゃげたベニヤ板。黒い土。トックリバチの巣。畳なんてそもそもどこにあるのか、見えません。
 すすだらけの梁がはるか上の方にみえました。
 「これできれいになりました。すっきりしましたね。」とおきのさん。
 私は言葉をなくし、おもわず「ビールをとってちょうだい」とカンビール一本のみほしました。
 この惨劇。芝居の書割のようにあっけなく
 次の朝、「ほら見て下さい。映画のビームのようです。」天井がなくなり、屋根裏から赤く洩れ来る光の帯を指して、おきのさん。
 そうかもしれない。この世は映画。天国座。
 きっと、うまく、ゆくだろう。    
            上島聖好

お休みどころ | 2003年のお休みどころ | 17:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

お休みどころ 2003年9月10日(水)

 9月3日からかまどを使いはじめました。いろんな人からすすめられていたのですが、やっと。やはりなかなかうまくいきませんでした。煙突のほうに煙がいかず、火がなかなかつきません。調べてみるとコケがびっしりつまっていました。開通しても煙が出ません。煙突には長さと角度が重要と北御門すすぐさんから聞いていましたので、1メートル半ほどでは短いとおもい、その先に捨ててあった雨どいをつぎ足しました。結局いまだに煙突はあるやなしやの状態ですが、それもいいことがわかってきました。この家は土間の天井がなく、煙が屋根裏から外へと逃げていってくれるのです。家の中が煤でよごれるのではと心配しましたが、そもそも柱も壁板も真っ黒ですので大丈夫。それどころか、蚊除けのためにいぶしているカヤの煙が屋根裏にいってくれるほうがありがたいとおもうようになりました。
 はじめは2つあるかまどの片方でお湯をわかし、おみそ汁とコーヒーに使うだけだったのですが、興味がわいてごはんもかまどで炊いてみることにしました。釜は聖好さんが持ってきてくれた羽釜(はがま)があります。炊き方を大家さんや近所の人、北御門さんに尋ねたのですが、要するに高温でしっかり炊きこんで、かつ、こげつかないことがポイントのようです。かまどでは強い火をつくることがポイントのようです。かまどでは強い火をつくることはやさしいのですが、はじめ弱い火からだんだん強めていくのがむつかしい。あとは火をひいて熾火(おきび)でむらすタイミングにもコツがあるようです。ベチャベチャごはんになったり、パサパサごはんになったりしました。
 ところが、郵便を配達してくれる金崎三重子さんにかまどの使い方を教えてもらったとき、僕たちの使っている羽釜は15合ほど炊ける大きさで、3合半炊くには大きすぎることがわかりました。そのとき聖好さんがセラミック土鍋のことをおもいだしてくれました。今朝から使い始めてみたのですが、土鍋はゆっくり熱を吸ってゆっくり吐き出してくれるようで、細かい火加減は必要ないようです。今日は鍋から湯気が立って3分ほどで熾火にしましたが、やや炊きこみすぎ。それでもお赤飯のようなもっちりしたごはんが炊けました。明日からも試してみます。
 このあたりにガスが来たのは40年ほど前のことで、それまではたき木と炭で生活していたようです。金崎さんの場合、小学生のときからごはんを炊いていたのですから、山の暮らしでは子どもも重要な働き手だったのですね。畑作りやまき割り、かまどの使い方など小さい時身につけた暮らしの基本がいまも生きているのはすごいとおもいました。(上島注:躾(しつけ)という字をおもいだしました。)
 納屋にあった火消壷(ひけしつぼ)という陶器のつぼも使いはじめました。燃えさしを消壷の中にいれて炭にして、七厘(しちりん)などで使っていたそうです。消壷のふたは割れていましたが、捨てられていたガラスの鍋蓋を聖好さんが塩梅(あんばい)してくれました。物がないときに、家のまわりを探して見つけてくる。これはここ平谷に住む楽しみのひとつです。
 汲み取りも始めてみました。バキュームカーに来てもらうには予約が必要で、おまけに月3000円近くかかるからです。始めてみてわかったのは、意外とかんたんな作業だということでした。捨てられていたプラスチックの洗面器とひしゃくを使ってくみ出し、刈草の山の上にかけています。聖好さんが毎日米のとぎ汁でEM菌(糞尿を肥料に変える微生物群。市販されている)を培養し、トイレに入れていますので、においもそれほどきつくありません。晴れた日にタライ4杯ほど汲み、いまではマンホールが空に近くなりました。このマンホールは安手のプラスチック製のせいか、入りくんだつくりをしていて、底のほうにヘドロのように便がたまっています。こういうことはやってみてはじめてわかりました。
 聖好さんが家の北の草刈りをしているとセメントの池(110×80×30cm)が出てきました。以前大家さんがつかまえたイノシシ(多い年は年に100頭)を洗ったところだそうです。家の外に水道があればと前からおもっていたので、助かりました。外仕事の道具やくみとりのひしゃくなども洗えます。あわてて掃除し、池の中にあった切り株や石や泥などを出したのですが、この池はカエルやトンボの住みかになっていたようです。なので、カエルさんが居ついてくれるよう、水をはり、石なども戻しました。池から水がもるので10cmしか水がたまりません。でも、その深さがかえってよかったようで、5、6匹が池の中にいることもありました。(上島注:トノサマガエルが多い。)
 ノミは落ちついてきたのですが、蚊、アブ、そしてダニも出てきました。ここ数日、カヤ刈りなどをすると、赤茶色の1mmほどのダニが星空のようについてきます。かなり困らせられたのがトックリバチです。人は刺さないのですが、鴨居(かもい)や押入れの奥などに泥の巣をつくります。窓ガラスに泥をつけたり、羽音がうるさかったり。巣はなかなか見つからないので、妙な羽音だけがしょっちゅうします(上島注:怪談のユーレイみたいな不気味な音)。当初はコピー機が故障した音だろうとか、虫の鳴き声だろうとか言っていたのですが、このハチでした。仕事机のそばに来たときなど、聖好さんが掃除機で吸うのですが、数がすごい。さらにアブ、ハエ、なども掃除機で吸いとるため、掃除機はいつも用意してあります(上島注:本で学んだ「退治」法)。
 トックリバチの巣をたまたま見つけたことがありました。勉強机(上島注:大家さんがおいていった机で、二つ取っ手がとれています)のひき出しの取っ手を修理していたら、ひき出しのうしろに巣が9個並んでいたのです。あけてみると、泥のつぼの中に茶色のパラフィン状のさやがあり、その中に大きくなったハチの幼虫がいました。2つの巣には幼虫がいず、ハエトリグモが7匹ずつつまっていました。このごろクモさんが減ったと聖好さんが言っていたのですが、このハチの仕業のようです。ですがトックリバチの巣はきれいな粘土でヒビもなくできています。この巣を集めたら、質のいい粘土になるかも。といった妄想にもかられます。

〔今週のお休みどころの出来事〕
9/3 聖好さん草刈り。薬草のイノコズチ(通経、浄血、利尿)の根4本、ゲンノショウコ(整腸、しもやけ、あせも)の地上部17本、赤シソ1本をとる。イノコズチの根は煎じるとゴボウのような味、ゲンノショウコは苦い。
 干したタケノコにもカビが生える。乾物、根菜類を聖好さん干しあげる。
 北御門さんにいただいた秋ジャガの種イモ10個を植える。
9/4 南の廂(ひさし)にひもをたらし、物を吊れるようにする。
 家のまわりや床下から出てくる木の芽(チャ、マンリョウ、クスノキなど)を北のスギ林に植える。スギ林のそこここからチャやウツギなどが出ている。
 たんすの下にもカビが生えるので、家具の足台をつくる。1m半ほどの8cm角の木材を16等分する。
9/5 犬小屋跡(大家さんがイノシシ狩りの猟犬を飼っていた)をたき木小屋にしていく。納屋の屋根にかかったクヌギの枝払い。
9/6 土間の水屋(みずや)と冷蔵庫の場所をいれかえる。以前は水屋にはカビと白アリ、冷蔵庫には西日という状態だった。
9/7 数週前までカヤが生え放題だった隣のおばあさん(ミツ子さん)の畑にヒガンバナが多数咲き、クロアゲハ3匹が舞っている。これを見て、すこしずつでもカヤを刈ろうと聖好さん決意。
 赤い小さなダニが多数つく。ニンニクスプレー(油にニンニクを漬けこみ、石けん液で10倍希釈)をためすが、殺すには至らない。このダニ除け液が、敷居のすべりをよくしたり、木のつやを増すことを聖好さんが発見。
9/8 梅干しにもカビ。かまど整備。ヒビを小石でふさぐ。
9/9 ホウセンカの群落、アケビ、赤シソ群落見つける。倒木のかげのジメジメしたところに赤シソは生えている。そういえば、草を取った前庭の赤シソは元気がなかった。湿気を好むよう。
             興野康也

 「盆過ぎに人に頼んでカヤを刈ってもらえば、もうあんまり生えて来んでよかァ」とお隣りのミツ子さんは言っていましたが、八月末までにはうちと同じ程みごとに風にゆられていたカヤも、きちんと刈られていました。刈りあとも茶色に変わったころ、前日に「モニュメント」近くのカヤの中からみつけたネジバナ一輪うれしくて、朝露踏んで見に行きました。と、おもわず、息をのむ美しさ。ミツ子さんの畑のここそこに、茶色の刈り跡から、ヒガンバナがむくむくと、咲いているのです。花火野いちめん。クロアゲハが二羽ひとつの花の両端にシーソーのように止まって、蜜を吸っているのです。「倒木更新」。いのちを待っていたいのちたちの群れに、目をみはりました。ゆっくりとでいい、お休みどころのカヤも刈ってゆこう。次のいのちをみたいものだ。花でいっぱいになったら、いいな。ここの土たちが選ぶ山野草でみちたらうれしいな。
 いまは「害虫」だらけの「恐怖どころ」だけど、いつかは自然に、雑草薬草園になるだろう。
 いまここに生えている薬草を調べてみました。フキ。カラスビシャク。ヨモギ。オオバコ。イノコズチ。キンミズヒキ。クチナシ。クズ。ゲンノショウコ。サンショウ。ジャノヒゲ。ユキノシタ。スイカズラ。ドクダミ。ハコベ。タンポポ。ヌルデ。モモ。ホウセンカ。カナムグラ。アカネ。スギナ。
 草刈りのとき、よく出会う大型の草ベニバナボロギク。『おばあさんの植物図鑑―椎葉の山里で』(文・斉藤正美、語り・椎葉久美子、葦書房)の中で、「ゆでて食べると菊菜のよう」と出てきます。
 きのう、じっさい食してみました。おいしいとはいえませんが、まずくもない。
 さて、私たちはこんなことをして一体、何をしようとしているのか。
 お金というものに依存しない暮らし。単純な生活実験。
 好奇心の行く先をもう少し見てみようとおもいます。
 そうそう、きょうおもしろいことがありました。
 正午すぎ、軽トラックが止まり、小柄な人がひょこひょこと歩いてきます。「肥後造園」とネームの入った作業着。先住人の伯父さんだそう。「不土野峠に測量に行った帰り、なつかしくて、ふいに寄ってみました。わたしの妹の子どもが以前ここに住んでいたときに二度ほど訪ねてきました。クルマがないので、お留守かなとおもいましたが、洗濯物が干してあったので。クルマがない!? そうですかあ。」とおずおずと名刺をさしだしながらその人は、にっこりと。豊永さんという人は、大腸がんを得たあとなので、真夏の草取り仕事は一時間ごとに休み休みやるという。仕事柄大工仕事もやり、十畳の部屋を自分で建てたという。その正直な話っぷりに、白アリにくわれた柱を見てもらうと、図面をきちんとひいて塩梅すれば一人でも修理できるという。来年の三月には仕事を辞める由。「そのときは相談にのってください。」と話したのでした。私たちは先住人の残したゴミに往生しましたが、こういうこともあるのかと、ふしぎな心地。
             上島聖好
お休みどころ | 2003年のお休みどころ | 22:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

お休みどころ 2003年8月12日(火)

  この夏はノミのことばかり話していました。こんなのまともな大人の話すことか? と聖好さんもため息をつくのですが、実際困るので仕方ありません。ノミについても大分わかってきました。当初は家の床下や屋根裏などからわいてきているのかとおもっていました。本を調べるうち、足に飛びついたノミを僕たち自身が運びいれているのだと気づき、ずいぶん見通しがよくなりました(7月25日)。家の外から内へ入るときには、手ぬぐいで体中はたいてノミを落とし、足元をチェックするようになりました。その結果、主なノミ発生地は納屋や前庭ではないかとわかってきました。
 しかし、それだけではノミ襲来をおさえきれず、夜寝ているときにしばしば刺され、夜4度起きたと聖好さんは連日訴えていました。そんなとき、聖好さんのおばさんから電話があり、聖好さんのお父さんもノミアレルギーだったことがわかりました。腫れがあまりにひどいので、阿蘇の家の土間の食卓に寝ておられたそうです。その話に着想をえて、「土間の食卓」に近いようなベッドはつくれないかと考え、聖好さんはいろりのやぐらごたつの木枠を2つ並べた上に寝るようになりました(8月2日)。
 それで少しはましになったものの、まだ昼夜ノミの攻撃が続き、考えあぐねていました。自分たちの持ち込みだけでは説明できないほど、ノミがいるのです。ノミはあまりすばしこくなくて、獲物をじっと待っていると僕はおもいこんでいましたが、その前提が間違いらしいと気づいてきました。ノミ侵入説の立場にたって考えてみると、土間がノミの侵入路らしいとおもえます。たしかに土間と前庭の出入口のドアは、いたってチャチなもので、敷居もなくドアの上下にすき間があります(注1)。いわば土間と前庭は陸つづきで、ここから侵入しているらしいと推測が立ちました。そこで敷居がわりに太さ10cmほどの角材をドアのところに置き、そのまわりにノミの嫌うホウ酸をふりまいてみました(8月11日)。ところが今朝、見てみると、ドアを閉めたときはいいのですが、開けたときノミが飛びこんできます。ノミは上方25cm、左右35cm飛ぶそうです。もっとしっかりしたバリアーが必要だと言うと、聖好さんが厚紙にビニール袋をまいてはどうかと教えてくれました。さっそく試作し、今日から立てかけてみています。土間を出るときまたぎ越えないといけませんが、家の内外に一線を引けた気がして、うれしいです。
 ラチがあかないノミとのたたかいですが、おもわぬ副産物もありました。『植物エキスで防ぐ病気と害虫』(八木晟監修、農文協)(注2)を参考に、聖好さんがつくったノミ除け液です(タバコの葉、トウガラシ、ニンニク、焼酎、酢など入り)。これがノミ除けにはいまいちですが、カビに効きます。梅雨以来青カビでベトベトしていた畳が、サラサラになりました。かゆみをおさえる効果もあるようです。
 タバコは、マダニに刺されたときにいいと地元の人から聞き、持っていたものです。おもわぬかたちで役に立ちました。他にも洗たくのときに出るせっけん液(排水)や、屋根のしっくい仕事後に出る石灰水など、ノミのいやがりそうなものを家まわりにまいています。おもしろいのは、タバコ液も石けん液も石灰水も実際に昔使われてきた農薬だということです(1700年代〜1800年代のヨーロッパなど)。思いつきで使ってみたものが、実際の歴史的な農薬だったと知り、びっくりです。ここ平谷に来て、農薬開発の苦労の一端に触れた気がします。
               興野康也


 ここ平谷地区は四軒。そのうち三軒が猫を飼っています。うち一軒はこのあいだまで三十匹ほど猫がいたという猫屋敷。それらの猫がここをよく「お休みどころ」として利用するのです。無理もありません。ずっと空家だったのだから。
 注1のような工事をした人も同じ地区の人。この人は、床下をみんなふさぎ、風通し悪くしてくれました。興野さんはひとつひとつそれらを解放しました。ところが前回も書いたように、ここがすっかり猫のトイレになってしまいました。でも、猫をうらむのは止めました。猫の気配のするだけでネズミはこわがると注2の本に書いてあったので。この本は名著です。たとえば、戦争のたびにナンキンムシは広がるとあります。七三一部隊は、ネズミノミを上空からまきペストをはやらせたのですから、戦争と痒み、切っても切れない縁。
 話を戻します。その大工さんにはノミと同じほど泣かされました。いまだに雨もりの修理をしつづけないと雨もりします。畳は26.5畳なのですが、一枚余分に請求してあります。そのことをついでの折に、畳屋さんにいうと、畳屋さんは大工さんに言ってくれたのですが、そんなはずは決してない(請求書にそう書いてあるのに)」ととりあってくれません。第一、見積書なしで(つまり、こちらの許可なく)私たちのいない三月に工事をし、突然請求書だけが送られてきたのですから。事のはじまりからズサンなのです。これで857,109円。「おまけしておく」といわれ850,000円。が、畳一枚分余分に払っているのですから、なにがおまけかしら。
 ま、いいでしょう。
 開拓者暮らしというものは、こんなものでしょう。
 貧乏には免疫がありましたが、ブト、ノミ、ダニなど「害虫」の類いにはなかったのでした。おもわぬところからほころびがゆくのが、人生というもの。
 そして、そのほころびが尊い経験であるのも。
 注2の本を貸して下さった才津原哲弘さんが「『許浚(ホジュン)』(論楽社で扱います。講座でもおなじみ朴菖煕(パクチャンヒ)さん訳)に『お休みどころ』という言葉がでてきますよ。不老長寿の薬草の生ゆる地を『お休みどころ』と呼ぶと書いてあります」と教えてくれました。不老長寿よりまずは痒み止め。来年はハッカ、ヨモギ、カヤ(これにはいまでも事欠きません)ニンニク、トウガラシなどを植えてみましょう。
 このからだが実験地。開拓地。
 ここに信を置く他ないような。
 そうそう。私は昼も夜も靴下(ノミ防止)をはきつづけ、水虫になってしまいました。きのうそれに気づき、あ。
               上島聖好
お休みどころ | 2003年のお休みどころ | 16:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
1/2PAGES | >> |

11
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--