お休みどころの2005年

お休みどころの2005年
            作製:お休みどころ

1月
 1日は晴れ。朝の土間0℃。
 犬のチビの散歩中に、付近の地形を知ろうと、山の斜面を歩く。泉をみつける。
 湧水の水量がへる。湯沸し器が凍る。
 北御門すすぐさん、阿部雅弘さん、マックさんたちが焚木を持ってきて下さる。
 1/7(金)〜1/13(木)まで、興野は鹿児島にて堂園メディカルハウスでの実習および神田橋條治さん(精神科医)の診療見学。(以後3月まで実習に月1回1週間出かける。)

2月
 2/7(月)〜2/10(木)、来日したグレッグさんと鹿児島でおちあう。小原裕子さん宅に2泊。
 2/16(水)、北御門二郎祭を開く(故・北御門さんは翻訳家)。11人が参加。東京から石原孝之さん、京都から川村幸司さん、山崎圭子さんが泊まりがけで来訪。著作の朗読、納屋での火語り、もちつきなどを行う。
 グレッグさん、お休みどころ参加の意志を論文にする。連日UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の博士論文作製(日本近代史)。

3月
 3/2(水)〜3/12(土)、京都行き。宮崎←→大阪のフェリーで行き帰り。国立ハンセン病療養所・長島愛生園に滞在。エッセイストの岡部伊都子さんの新マンションと旧宅を訪問。川村幸司くん・山崎圭子さんの結婚式に参加。鞍馬寺の観光。明石土山病院で波多腰正隆さん(精神科医)の外来見学などもりだくさん。
 お休みどころよりさらに山奥の平畑(だいらこば)地区のOさん死去。残った2人が山を下り、平畑が無人となる。
 3/23(水)神田橋さんが伊敷病院の院長との面接を設定してくださり、興野は精神科医として就職できることになった。急転回におどろきつつ、やったあ。4/1から毎週水曜の朝に出かけ、土曜の夜に帰る生活に入る。

4月
 田嶋順子さんの指導で上島聖好さん、畑仕事に精を出す。(スミレ、ビワ、ミント、ヤロー、ワケギ、チンゲンサイ、小松菜、カボチャ、冬瓜、キュウリ、サツマイモ、里芋など)
 鹿よけネットをはる。
 4/9(土)、堂園メディカルハウスの上村富美子さんと夜桜花見。(上村さんは肺がん末期の体をおして、去年11月お休みどころに来てくださった)。
 4/12(火)、玉名の蓮華寺にてチベット亡命政府のダライ・ラマ法王の法話を聞く。聖好さん、車中のダライ・ラマの手をとる。

5月
 5/6(金)〜5/15(日)聖好さん京都へ。5/8、「岡部伊都子を語る会」(能登川町立図書館)に参加。5/14(土)、法然院での林洋子さん(一人語り芝居)公演の際、お休みどころに来てくださるようお願いする。(11月の九州巡行公演に結実する)。
 5/15(日)〜5/16(月)、長島愛生園の金泰九さんが大黒澄枝さんと鹿児島に来る。神田橋さんにも会っていただく。神田橋さんは金泰九さんに感銘をうけ、こう言った。「苦難と悲しみが発酵をして別なものになっている……。尊敬します。」お休みどころにも来ていただく。小原裕子さんが運転を買って出てくださる。
 5/28(土)、聖好さんの弟の上島聖雄さん一家が4人で来訪。4/27に生まれたチビのオスの子をひきとっていかれる。テン(天)と命名。

6月
 戦闘機の轟音がひんぱんに聞こえる。人吉に行く際、バスの運転手の緒方さん(元・自衛官。お休みどころにも来訪)に聞いたところでは、宮崎県の新田原(にうたばる)基地が近く、そこから飛んでくるらしい。
 6/12(土)〜6/22(水)、グレッグさんのUCLA大学院博士課程卒業を祝いにアメリカのカリフォルニア州への旅。聖好さんの甥の聖太くんと3人で。宮田光雄さん(思想史の学者)の著作英訳という仕事を、聖好さんはグレッグさんへのおみやげに持っていく。グレッグさんのロサンゼルスの下宿に滞在。グレッグさんの家族、友人、思想家であったクリシュナムルティの地オーハイなどを堪能する。帰りの飛行機を乗りすごしさえしなければ完璧だったのだが。

7月
 チビにはノミがたくさん。でもお休みどころの最初の年(2003年)のように家の中にたくさんいることはない。
 7/17(日)、水俣の産廃建設反対集会に田嶋順子さんと3人で参加。二次会の席で、林洋子公演を水俣でも開いてくださるよう聖好さんがアピール(11/3公演に結実)。アピールできたのは高倉敦子さんのはからい。(そもそもの糸口は、阿部勤子さん)
 7/24(日)〜7/27(木)、鹿児島へ。小原裕子さん宅に泊めていただく。朴才暎さん来訪のお迎え。林洋子公演の件で「どんぐりの家」(無認可保育園)訪問。(小原裕子さんのはからい)

8月
 8/14(日)〜8/16(火)、熊本市と阿蘇への旅(林洋子公演の件)。熊本近代文学館で北御門二郎展を見る。映画『わたしの季節』上演会に参加。富樫貞夫さん(法学者)とグレッグさんの就職の件で話す。阿蘇の「風流(かざる)ホール」を訪ねる。
 8/29(月)、カボチャや冬瓜の重みで鹿よけネットがこわれたスキに、鹿が畑を荒らす。

9月
 8/31(水)〜9/5(月)聖好さん京都へ。台風で帰りの飛行機欠航。結局9/9(金)に帰りつく。
 9/10(土)〜9/11(日)、第1回お休み講座。神田橋條治さんが講師。二日間でのべ50人が参加(夕食会、翌朝の講演会、昼食会)。
 9/16(金)、隣家の椎葉ミツ子さんが足の骨折で入院と聞く。一人暮らしなので、骨折後2日目に妹さんが発見。ミツ子さん宅、空屋になる。ネコ20匹離散。
 9/25(日)、棟梁の浦松さん、大工の阿部さんたち5人来訪。納屋の改装を決定。(以後、毎月一度、母屋か納屋の改装かどちらがいいか話しあう。)

10月
 聖好さん夏物冬物入換え。ネズミのフンが押入れに。太いネズミが横行しはじめる。
 9/29(木)〜12/19(月)、グレッグさん来日。(林洋子さんの件で、福岡の友人3人と9/30会う。)
 9/29(木)〜10/2(日)、グレッグさんと聖好さん、福岡と熊本への旅。10/1(土)には哲学者の鶴見俊輔さんの講演会に参加(会場は熊本のびわの木文庫)。(9/30、熊本学園大の富樫貞夫さんにグレッグさんの就職の件で会う。)
 10/16(日)、地元の平谷地区の山の神祭り。
 10/23(日)〜10/25(火)、田嶋順子さん、阿部勤子さんと東京へ。10/23(日)、林洋子25周年記念の会に出席。10/25(火)は韓国・台湾のハンセン病国家賠償訴訟の判決日。宿泊したハンセン病療養所・多摩全生園で原告の方々に出会う。歴史に居合わせたのだ。

11月
 10/27(木)〜11/15(火)、林洋子九州巡行公演の運営(阿蘇、球磨、水俣、鹿児島、福岡、計13ヶ所)。10/30(日)は第2回お休み講座としてお休みどころでの公演。50人が参加。聖好さんとグレッグさんはほぼ全会場へ同行。(桑原智子さん、いそこさん、順子さん、運転を、ありがとうありがたく。)
 11/23(水)〜11/26(土)、グレッグさん一人旅へ出発。知覧、「ガイア水俣」などを訪れる。
 ネズミ害が発生。夜に天井裏をドタドタ走る。大きすぎて、ネズミ捕りシート「ぺったんこ」にかかっても逃げてしまう。困りはて、とうとう毒を使うことになった。11/28(月)、湯前町の薬屋が配達してくれる。(毒といっても、人間には脳梗塞の薬。血をさらさらにする。)2週間後、聖好さんの仕事机の足元の電熱マットの上にネズミの死体を発見。

12月
 12/3(土)〜12/6(火)、仙台・山形への旅。仙台では宮田光雄さん・通子夫人の聖書研究会に参加。(宮田さんが書いた『権威と服従』をグレッグさんは2006年翻訳する。)雪の仙山線(せんざんせん)に乗る。山形では果樹園の齋藤農園を訪ねる。
 聖好さん、グレッグさんは12/14(水)〜12/17(土)京都へ。
 グレッグさん見送りのため12/17(土)〜12/20(火)東京へ。林洋子さんのマンション(三田ハウス)に滞在。茨木のり子さんにも会う。鈴木好子さんの導きで、安江良介さんの墓参も。
 12/31(土)〜1/2(月)、宮崎県高鍋の横川澄夫牧師、ミサオさんを訪ねる。朝5:30にチャボのなく横川家で、すがすがしい新年を迎えた。
 2005年1月から田嶋順子さんの発案で例会をはじめることができました。深山の花園です。
 今年はお休み講座に金泰九さんをお招きしたい。京都の論楽社で「山下満智子展」(山下さんは裁縫家)を開きたいというのが、私たちの願いです。
                  (2006年1月9日 作製)


 寒い日が続きます。
 あの人は、元気かなあ。この人も、どうしているだろう。
 なにより、わたし。いのち燃やせよ。しずまりかえった夜に、薪をくべます。炎は、ほのかな人のかたち。
 こうして冬を過ごせますのも、おひとりおひとり、あなたのおかげです。
 ありがとうございます。
 2005年9月、「お休み講座」がはじまりました。
 5月24日、お休みどころの、大家さん、ハナ子さん(83歳)の自死が機縁となりました。地元の人はいいます。「息子さんを待っとったのに、正月も連休も帰ってきなれんじゃったもんなあ。」
 葬儀の日、関西から帰った息子さんはこう挨拶しました。「母は自らいのちを絶ちました。が、母の最後の願い、この水上村の古屋敷で死にたいという願いは叶えられました。みなさん、ありがとうございました。」そう言って、五十をとうに過ぎた息子さんは泣きながら、座敷の畳みに、ガバリと頭をつけました。
 葬儀は、茅吹き屋根にトタンをかぶせたハナ子さんの小さな自宅でひっそりとおこなわれました。古屋敷という地区の村人総勢30人ほど、老いた人々がとりしきり、棺をかつぎました。棺の上には、縄(左によってある)と松明と。「あ、わらじがなか!」と村の人。ほんとうは、わらじものっているそうです。観音経がしずかに流れ、うぐいすはのどかに鳴いておりました。
 古屋敷は、ここお休みどころから下って四キロ。地区の中心地。ですが、いまでは、たった一軒あった商店も閉まりました。小学校も私たちが移った年に閉校。むかしは最大260人もいたそうです。
 どうしてこんなにさびれたか。それはいつのときからなのか。「息子」たちはどこへ行ってしまったのか。
 私たちはクルマのない暮らしを選んでいるわけですが、クルマは収入の多寡にかかわりなく、薪一本と同じように必需品です。クルマは、いつから、村々をくまなく席巻したのか。
 ここは九州山脈の只中。山、山、山、というのに、道路沿いは杉、桧の人口林。薪としては力に欠けます。それは、いつのときからなのか。密生したまま放りだされたのか。
 フェリーで京都に帰るなら、まず、大阪港へ着きます。早朝の大阪を横切ってゆくとき、電車の窓からブルーシートが目にとびこんできます。入佐明美さんは元気かな。入佐さんは日雇い労働者の街釜ヶ崎に住み、労働者の話をきく「ボランティア・ケースワーカー」です。年は私と同じ。誰に頼まれたのでもなく、ただ、それがうれしいから彼らの話に耳を傾ける。
 グレッグさんを送り、ひとり山寒生活に入ると、ブルーシートが浮かんできます。折しも虫賀くんも仕事(取材)かたがた入佐さんを訪ねた由。ありがたい。入佐さんに手紙を書いて、あらためて、ご著書『地下足袋の詩』(東方出版)を送っていただきました。
 胸、衝かれました。そこには、ここから行った人たちの姿が書かれてありました。入佐さんの本を以前にも読み、論楽社の講座にも来ていただいたはずなのに、私は何も聞いても読んでもいなかったのでした。
 こことそこ。つながっている。一本の川。
 球磨川は、水俣の海に注がれているだけではなかったのでした。
 この春、ようやく遅れに遅れていたお休みどころの改築に入ります。(せめて雪の降りこまない家に。一夜の宿をこう旅人に暖をとってもらいたい。)
 改築の許可を、まずは村長さんを間に、それから私たちが直接交渉することになりました。村長さんからなかなかれんらくがないなとおもっていたら、「遅くなってごめんなさい。なかなか息子さんがつかまらんもんで。午前二時までの仕事で、昼間は休んどらすということで。」きけば、息子さんは若いころは山仕事をしておられ、いまはゴミの仕事をしておられるのでした。
 「成功」した息子たち。「成功」を免れた息子たち。
 ここは、「息子」たちの、生産地。
 2006年、お休みどころは、三人からの出発です。 
 ここ辺境にいるというのは、ある意味で、北御門二郎さんの「徴兵拒否」。
 薪一本、ほのかなレジスタンス。
 林洋子さんの公演に来て下さった柳川ミツエさん(70)に新年のご挨拶をでんわでいたしました。柳川さんはここから四キロほど上に住んでおられます。お留守かなとおもってでんわをおこうとしたとき、野の草のような声が響いてまいりました。「まきとりの仕事をしとったとですよ。チェンソ(チェーンソー)で切ったり。仕事がいきがいっちゅうか、ひとりになってやむをえんこつもありますが、あとさき残ったもんがせんば。クルマも乗りまっせん。先祖をまつって山の手入れをしとります。
 自分の土地というものがあれば、足踏んでおった方が落ちつくとですよ。」と言い言い、ミツエさんは笑います。
 ミツエさんが笑うと、花一輪咲きいでるよう。ポッポッポッ。
 そんなお休みどころでありましょう。ようこそようこそ。
 いつもあなたを待っています。
          上島聖好


 この冬を越すと平谷に3年。なぜか、ここは僕のふるさとだと感じます。
 都会の病院とこの山奥を行き来しながら、自分にできることは何か考えていきたいです。
 石の上にも三年と言いますが、お休みどころの基盤づくりだけでも、三年以上かかると知りました。
 奇妙な三人航海ですが、どうぞ皆様ご支援ください。
          興野康也


 「その光(神様であるいのち)は暗やみの中で、輝いている。暗やみがその光をしのぐことはなかった。」ヨハネ福音書

 新年おめでとうございます。この2006年にもこの光を信じて、希望を語り合ったり、平和を実現したりできるようにお祈りし続けます。
 2005年はイラクでの戦争が続いて、殺された人数がイラク人3万人、アメリカ人2千人をこえた暗やみの年でした。このうちに人間1人として、人間3人として、人間万人としてどう生きるかどう抵抗するか考え続けています。
 皆さまの親切と力のお蔭さまで6月学生としての長年が終って、新しい出発を迎えました。日本での出会いは平和への道の導きだと信じて、仕事ができるようになりました。宮田光雄さんの『権威と服従、近代日本におけるローマ書十三章』を英訳してから、先生として導いて下さった人たちの書いたもの、生き方を、自分の生き方でことばにしたいと思います。この2005年にはお休みどころに長くいらせてもらって感謝しています。実現しつつあり、可能性を掘り起こしてもらいつつあると感じています。大変さしか見えない日々も多いけれどもそれぞれの道(詩人、精神科医、歴史家、犬)は共同ですし、先に生きる、共に生きる人たちの存在を不思議に感じて、感謝しています。
 周辺から、又は世と世の間に生きるのは創造的な可能性があると信じています。皆さまと共に道をさぐる、希望を語り合える、平和を実現し合えるように、この2006年にもよろしくお願いします。 
          グレゴリーヴァンダービルト
             カリフォルニア州チノー市にて

 グレッグさんは復活祭ののち、お休みどころに復活します。2006年1月〜3月はUCLAで日本近代史の講義です。「戦時中の日本」がテーマ。
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お休みどころ 2005年12月27日 火曜日

 また冬がやってきました。去年もおととしも、この冬越したら暖房をどうにかする、と思いました。でも冬をすぎたら「それはそれで……」となってしまうのでした。
 お休みどころの建物をどう作り変えていくか。たいへんな懸案で、二転三転しています。去年の冬には「涙骨賞」懸賞論文の賞金をあてて、納屋にゲストルームを作る材木を買おうと言っていました。が、それも落選。その後も聖好さんはいろんな人に納屋改装のアイデアを相談してみたのですが、村長さんや地元の方の反応がいまひとつでした。
 そうして、納屋よりもまずは母屋の寒さ対策、と発想を転換しました。
 阿部さんや棟梁の浦松さん、みなみ由さんたちが仕事の合間をみつけ集まってくださり、聖好さん、グレッグさんたちと議論。母屋の部屋を二つ付け加えることや回り廊下、採光などを僕たちは希望しました。
 ですが、結局、大工の目で見て母屋に部屋を作ることは構造的に美しくない。母屋よりも納屋の方が構造的にしっかりしている。いずれにしても納屋を整えないと、人をお迎えする雰囲気にならないのでは、と二日前阿部さんがおっしゃいました。
 そして母屋の改装の代わりに、浦松さん、阿部さんが薪ストーブを設置してくださいました。いろりの上にしっかりしたふたを作り、その上にストーブを設置。煙突も天井と屋根を突き抜け、直登です。この煙突のパワーはすごい。
 そう思って喜んだのもつかの間、こんどはたき木の問題です。ことしはグレッグさんがコツコツとたき木をつくってくださったとはいえ、まだまだ足りません。たき木をどうやって調達しよう。
 運送についてはグレッグさんの案で、シルバーの方におねがいしてみることにしました。車で運んできていただく件はOK。さて、こんどはどこでたき木を手に入れるか。水上村森林組合に電話すると、「ただでお分けしていますが、いまは人気でここにはもうありません。球磨プレカット工場が三百円で軽トラ一杯の木切れを売っています」とのことで、やれやれ。
 ところがこんどは球磨プレカット工場も、シルバーの方に来ていただく当日になって、品切れだと言うのです。シルバー派遣担当の西野さんのご教示で、水上村二ヶ所、湯前町二ヶ所、多良木町二ヶ所の製材所に電話。2mの杉の背板が軽トラ一杯で千円〜千五百円とわかりました。
 こんどはチェーンソーがない。シルバーの宮地さんが持ってきてくださることになりました。きのうは10時から午後2時まで働いてくださり、材木代千円、作業費三千円でたき木ができました。まだ一冬に使う四分の一ほどだとおもいます。がんばらねば。
              興野康也

 12月14日〜12月21日まで、グレッグさんを送る旅をしておりました。12月19日、成田空港からグレッグさんは出発します。この冬、彼の先生、ミリアムさんに代わって母校UCLAの講義二ツとゼミを一ツ、教えることになりました。ビザの期限三ヶ月が切れる時期でもありました。当初からの予定は12月19日一時帰国。家族――グレッグさんは一人っこ。92歳のじいちゃんを世話する立場です――と共にクリスマスを送り、イースター(復活祭)を迎える。それはひとつの大きな義務なのでした。
 ミリアムさんの話が訪れたのは、お休みどころにきてからです。ミリアムさんはグレッグさんを私たちのもとにつれてきてくれた人。(五年前のことです)彼女が体調をくずし、この冬、休養することになりました。幸い、病気そのものはたいしたことではなかった。去年の暮れには、神田橋先生のもとを訪ねた、一念の人。(立命館大学での集中講義のあと、京都から三回新幹線をのりついで。そのたびごとに車椅子を使い、いそいで乗りつぎ、乗りこんだ)「この人に会いたい」とおもったら、どこまでも会いにゆく。ミリアムさん到来のおかげで私たちは鹿児島の海辺で遊べました。(小原裕子さんが運転をかってでてくれました。ありがとうありがとう)「ふしぎねぇ、こうして歩いている」といいながら。ミリアムさんは三ツ大きな病いを持っています。それをまるごとひっかかえ、走り抜ける。そうして人と人を、つないでしまう。
 そのときも私は冷えと風邪が離れずにうじうじとしておりました。いよいよ、それが高じてきた。「ウツ」と会話の端に口に出すと、ミリアムさんは(でんわで)言った。「神田橋のもとにひとりで行って受診しなさい。」それは無理なことでした。
 出発の日はまぢかだったのです。
 かてて加えて、もうひとつ。私は友人の漢方治療(生薬)を受けはじめたばかりでした。からだにそくした生薬を十二種、日々の体調に合わせて微妙に配し、いただく。友人の親身な治療で冷えはうすらいでおりました。
 「困ったことになりました。」パソコンに向かっていたグレッグさんはいいます。
 「先生からメールが届いています。いますぐ、三百ドル送金するから、聖好さん、アリゾナ(ミリアムさんのボーイフレンドのいる)でクリスマスを迎えなさい。足りない分は、神田橋先生や徐勝さん(ミリアムさんがはじめて論楽社を訪れたのは1996年徐勝さんとでした)から一万円ずつカンパしてもらいなさい。」
 ぎょっとしました。ありがたいのは重々で。
 ほんとうのことを書くしかないな。ミリアムさんに手紙(FAX)を書きました。
 「ミリアムさん。おかあさまのジェーン様のご命日もすぎましたね。去年の11月20日、おかあさまのご様子をうかがおうとでんわしたら、すがすがしいお声で、『いま母が亡くなったの』とおっしゃいました。そうして約一ヶ月後に、私たちは鹿児島でお会いすることができました。桜島の熔岩を抱き、隠れんぼしながら、浜辺で遊びました。そのとき、ミリアムさんはおっしゃいました。『聖好さん、本を書きなさい。書簡形式で。』
 私は申しました。『それは私の仕事ではないような気がする。私は手紙を書きつづける。ひとりの人間に、語りつづける』と。さらにすすめるあなたに、『そうね。生きのびるアンナ・カレーニナなんかいいかもね』と私は笑ったのでした。
 以来、私の仕事は何なのか。
 お休みどころを私ははじめたのですが、それは一体、何なのか。論楽社共同経営といっしょか、いっしょではないのか。考えておりました。
 ミリアムさん、この地は『荒野』です。
 山暮らしに熟達した人もいいます。『ここは、山暮らしでもハイレベルの地ですよ。』
 いまだに、からだは馴染めません。
 が、このたびグレッグさんがこの地を選び、参加することによって私ははっきりとこう定めました。この地に、ふるさとをつくろう。ほっとするほのかな炎。それはバカげたことかもしれないけれど。ふしぎ『家族』を探す旅。お休みどころ号のよろよろ航海。なつかしさの奥の奥のところで人に出会う旅をつづけてゆこう。
 そう。あなたと私のように。
 この冬は週四日、私は一人。薪を集め、犬を散歩させるだけで日の大半を過ごすでしょう。生きのびる愛を、試してみます。
 こうして冬を越えたら、春。ミリアムさんのために祈っています。そして、私のために祈っていて下さい。」
 旅を終え、ふたたび雪の只中のお休みどころに一人戻れば「無理しないで。アリゾナで遊びましょう」と留守電が入っておりました。しずまりかえった部屋。受話器に耳をくっつけても、パーキンソン病を得ているミリアムさんの声は前半判じがたいのでしたが、これが、生きのびる愛のささやき。
 12月14日、大阪に着くとすぐ、山下満智子さんを訪ねました。満智子さんは脳梗塞を得、共病生活。どんな小さな布のきれはしからも、宇宙平和を生み出すお針名人。岡部伊都子さんの衣を支え、お休みどころの住を支えてくれた人。満智子さんを訪ねた帰り、電車の中でひょっこりと野田恵津さん(神田橋先生の「お休みどころ芸術祭」に京都から参加して下さいました)に会うのも、ふしぎ。
 「満智子さんの服の展覧会をしてあげて下さい。」ちょうど、グレッグさんが、私に話しかけておりました。次の春、論楽社でやりましょう。
 東京では七年ぶりに鈴木好子さんに会いました。鈴木さんは安江良介さんがしんそこ信頼しておられた人。林洋子さんの三田のすぐ近くというのも、ふしぎな、なつかしさ。青山墓地にある安江良介さんのお墓参りにつれていって下さいました。墓石には「仁と元」ただこれだけが刻まれておりました。仁と元、どちらも、人と人とのつながりをいうのだという。安江さんらしい。青山墓地が抽選であたったのも、安江さんらしい。お墓参りに行くというや、庸子さんと庸子さんのつれあいも現地集合、特別参加。安江さんを生前知っているのは鈴木さんと私。あと三人はわいわいと乗り合わせた船。ふっくらと落葉の毛布を掃き浄め、鈴木さんがお花、線香を手向け「ありがとうございました、とわたしが申すのもへんですが、賑やかなのが大好きだった安江さんでしたから、およろこびなさいましょう」とごあいさつをされるのでした。
 「現地集合? 会うのはむつかしいんじゃないかしら。」
 鈴木さんの危惧ものりこえて、「仁と元」の前で出会えるふしぎ。
 翌日は、茨木のり子さんと会いました。
 「お休みどころのお休みどころ」になって下さるというのです。
 名付け親、詩からとびだしたお休みどころをひきうけて下さり、ありがとうございます。
 その日の夕方、林洋子さんのおうちでの集いには、楢木さん、笠浦友愛さん。なつかしい友人たちも寄りました。洋子さんのベンガル料理のうまかったこと。
 グレッグさんを19日、無事に見送りました。
 グレッグさんがぽおーんと旅だってゆく。「いちょうの実」のように。
 4月16日、復活祭ののち、ふたたびこの地に立つでしょう。
 わくわくと、待っています。
              上島聖好

 カリフォルニアの大晦日は珍しく雨。祖父は久しぶり暖炉で火をつけていた。あと三時間で新年。光の来る2006年になりますようお祈りしつづけましょう。
 帰国してからの十二日間ほど疲れたことがない。10日から授業も。
 14日、雪の中で山を降りて、聖好さんと二人で京都(寒い京都)に帰って、そして17日に三田で興野と会った。友人三組(川村幸ちゃんと山崎圭子ちゃん、江藤ちゃんと麻美ちゃん、横浜時代の〝兄貴〟)は2006年(戌年)に子供を迎えることになったと聞いてうれしかった。
 近江八幡で奥村先生にヴォリーズの話を聞かせていただいた。そして吉祥寺でご馳走して下さった茨木さんに小泉八雲の話を聞かせていただいた。
 聖好さん、洋子さん、興野に成田まで送ってもらって感動した。ありがとうございました。
              グレゴリー・ヴァンダービルト

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お休みどころ 2005年12月12日 日曜日

 お休みどころに雪が降っています。きょう、大工さんの阿部ちゃん、浦松さんが、新しい薪ストーブを中之間の囲炉裏の上に設置してくれます。週4日は興野はいません。グレッグさんは19日に一時帰国。冬ははじめての「一人暮らし」。冬構えのストーブです。雪の今夜は、きっとあたたかな火入れとなるでしょう。
 12/3〜12/8 、仙台、山形の旅をしてまいりました。
 グレッグさんが宮田光雄先生の『権威と服従』という本の翻訳をすることになりました。近代日本キリスト教史を専門にしているグレッグさんをおいて他に適う人はいないでしょう。宮田先生との出会いもふしぎ。故安江良介さん、故今谷千歳さん(宮田婦人の通子さんの叔母上)、ゴーバル(無添加ハムづくり、アジア農場)、富樫貞夫さん、いろいろな人が宮田世界に案内してくれました。「老賢者」の花園に。
 12/3。福岡の弟宅で一泊。お休みどころから出てきた二人と鹿児島からのおきのさんが合流。仙台までの便は福岡空港のみ。そしてこの日は、「特割の日」。
 12/4。仙台に午前中に着き、駅前の「無印良品」にノートを買いに入りますと、目の前に「姿見」がでんとあります。「姿見を京都から持って来なさい。あなたはたましいをおいてきている。」洋子さんから怒られました。が、京都は京都。もうひとつのふるさと。
 洋子さんの言とはいえ、早々に実行できません。それならば。心においておりました。そしたら出会った。つつしんでいただきます。買うことにしました。
 そうして、宮田先生の聖書研究会に参加しました。
 宮田先生、通子さんの誇らかに明るいこと。
 「できることは、笑うことしかないじゃありませんか。」
 通子さんのこどものような声と笑みに、ハッとしました。30年にわたって、一麦寮という学生たちとの営みの場を自宅横に建て、学生さんたちの食事からたましいの世話までこまやかにしつづけた人の明るさです。おなじ明るさを山形の斎藤たきちさんと幸子さんも持っておられるのでした。
 と、ここまで書いたとき、浦松さんと阿部さんが隣りの部屋でとんとんとん。ストーブをしつらえるため、天井に煙突穴をほがしています。グレッグさんが助手。二人のていねいな仕事に見ほれています。「浦松さんはすごいです。まかせてください。」と、グレッグさん。
 外は雪。山形の寒さもこんなふう。
 たきちさんに、近くの温泉につれていってもらいました。
 仙山線をてくてくと走る列車を追いかけて、上の方に銀のお日さまがかがよっておりました。「山寺駅」。こころひかれる名と大岩そびえる山の風情に、あとできくと、芭蕉縁の寺の由。山と雪と日。温泉から上ったときには、銀の三日月。十年ぶりの山形。「行ってらっしゃい」と幸子さんに送り出してもらって。このたびも「行ってらっしゃい。」会いたいひとに出会いたい。願うのはいま、そのことばかり。
 12/5。仙台から山形に発つ午前中、楢木祐司さんに会う予定でした。が、できません。仙台は楢木さんのふるさと。東京から父上の見舞いに来るはずが、父上が亡くなられたのでした。急きょ、お悔やみを書きました。
 こういう出会いもあるのだ。祈りを捧げます。
 かつて北御門ヨモさん(二郎さんのつれあい)は、お休みどころ三人を見て、「よう似とんなはある。親子のごたる。息子さんの目のあたりがおとうさんにそっくり」といいました。
(上島聖好)

 今、雪の積もっているお休みどころの風景を初めてみていてうれしい。が、もう再出発になった。雪じゃなかったら、2キロ下の不動明王さんに挨拶しに行こうと思っていた。アメリカ詩人のスナイダーさん(阿部ちゃんの親友の昔からの友人)は不動明王さんは熊崇拝の続きだろうと書いたが、ここのも大きな岩の下から世を見てくれる。ここの古さを感じている。
 仙台で宮田聖研に参加させてもらってよかった。来年三月、そろそろ終了という話もあるので、今生きている使徒行伝と出会って勇気をいただいた。真面目で笑いが元気の先生の仕事を少しでもここで続きになるように祈っている。そして聖好さんは冬を越えて、春を迎えるように。
(グレゴリー・ヴァンダービルト)

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 雪が降っています。屋根から立ちのぼる薪ストーブの煙。外から眺めると、嵐を行く船のようです。
 さっそく薪の心配。2週間分の貯えもありません。グレッグさんの家で「シルバー」さんに頼むことになりそうです。(「シルバー」とは村の老人に仕事をお願いする制度です。時給800円)
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「火を入れないと…」
火は「船」の「食料」です。
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たきちさんのりんごの源泉を見てうれしかった。「農民」から「百姓」―百の姓を司る誇りたかい土の人―に生きることを選んだたきちさん。その生は『北の百姓記』に描かれている。「おれは最後の百姓になるかもしれない」と、たきちさん。
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富神山(とがみやま)は見ている。りんごの、ぷらむの、さくらんぼの、花のよろこび。
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東北芸工大には能舞台がありました。
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兄弟姉妹の家(Bruder Haus)
イシガ・オサム。この人の名が宮田先生の口から出てきて、びっくり。
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「パウロはひとかかえの柴をたばねて火にくべたところ、熱気のためにまむしが出てきて、彼の手にかみついた。」(使徒行伝 28.3)
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12月19日、グレッグさんはアメリカへ。

そのまえに、グレッグさんと聖好さんは東大寺戒壇院の広目天・、多聞天をみてきます。
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「聖好さんは飴色のミイラになっている。その脇に従う仏像2体。それが戒壇院の広目天・多聞天とそっくりなのです。“あなたは誰ですか”わたしが心の中でたずねると、その仏様はこたえる。F。と。Fは、ファミリーのFかもしれない。見にゆきなさい。」林洋子さんの夢のお告げ。お休みどころは、「F」に出会う旅を続ける船。
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神聖家族とは?

ああ。もっとも深い、おくのおくのところで出会いたい。われらが、「F」よ。
お休みどころ | 2005年のお休みどころ | 12:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

お休みどころ 2005年11月22日 火曜日

 10/27〜11/16まで、「林洋子九州ツアー」を無事終了。グレッグさんは13ヶ所の公演にすべてつき従い、照明係を果たしました。
 当初は11ヶ所の公演。それが出会いの産物、2ヶ所増えたのです。ひとつは11/9、槻木(つきぎ)小学校。くねくねと山道を辿った先に、全校生ひとりの小学校があります。5年生の落合未己ちゃんを前に、洋子さんは「やまなし」と「よだかの星」を語りました。紅葉をそのまま映したような翁と媼もまじっておりました。校長先生が村の人たちによびかけたのでした。以前は、最大700人もいた小学校だったそうです。付近にはパチンコや映画館もあった由。
 「ヤマセミもいますから。」校長先生のその一言にむっくりと心はうごいたのですが、「いやぁ、1回しか実物を見たこたありません。」着いてまもなく言われて、ちょいとがっかり。
 語りがすすむにつれて、いよいよ照り輝く全山紅葉。「きょうは思い出に残りました。」恥づかしそうにうつむいて笑む未己ちゃん。「一生の宝です。」と深々とお辞儀をして帰ってゆかれた年配の女性。その人々の何人かが、次の最寄りの公演地まで、雨の夜にもかかわらず、片道1時間余の道のりを来て下さって、感激しました。
 そしてもうひとつのボランティア公演は、いそこさんの働く「老人ホーム」の「桜の里」。午後の「リクリェーション」の時間をあてて、お昼寝のかわりに集った老いた人たち30余人。上は102歳。もぞもぞする人をみたら、パッとかけつけ、眠りこける人がいたら、ぞろっと揺り起こすヘルパーさんたち。そんな方々を前に公演するのです。進むにつれ、おじいさんの顔が明るくなり、口もぽかんと開きます。「それから3日目の晩だった。」「なめとこ山の熊」を語る洋子さん。
 「はい」とおじいさん。かしこまって応えます。「それが、うれしかった」とあとで洋子さんは、はればれといいます。洋子さんにとって、このような場所は初めての経験だったそうです。「ものすごいエネルギーを使った。一生懸命きく人もいるけど、チョロチョロするヘルパーもいる。槻木小学校に集った翁媼とも違う。右肩がその晩から痛くなった。『行けぇ、行けぇ』と力をこめて送る。」と洋子さん。博士(おきののこと)の仕事もこのようなものか。お休みどころの平谷に住むというのもこういうことかとおもったそうです。
 11/12は、鹿児島市のどんぐりの家(無認可保育園、自然学校)で公演でした。山の斜面を利用した大きな空間に、ヤギ、ニワトリなどが飼われています。どんぐりの木にはブランコやらロープがつけられ、こどもたちが歓声をあげながら、遊んでいます。ひょいととびのり、ひゅうんと着地。一人が乗ると、もうひとり、ひとり。いつのまにか五人のこどもたちがひとつのブランコに乗ってさざめいています。蓮の葉においた水滴のよう。秋の透んだ風が吹き抜けてゆきます。
 私はできるだろうか。抜けられるだろうか。
 平谷にこどもたちの声が満ちることがあるのだろうか。そうおもっていると、「やりましょう。お休みどころの裏山に、こんな遊び場を作りましょう。川もあります。滝もあります。サワガニもいます。」智子さんが、ふいにあたたかな声をあげたのでした。その日、智子さんは10才と5才のお子たち二人をつれ、洋子さんと私たちのドライバーをひきうけてくれたのでした。
 平谷のさみしい大地を歩いてゆくと、出会えるだろう。「この道をとことこ歩いてゆけば、あの方に会える。」洋子さんはそう言い残して、旅立ちました。「これが私の原点だ。」
(上島聖好)

 この3週間、林洋子さんの世界で一つの人生を生きてきたと感じます。毎朝の体操、琵琶の弦を繰り返しの時間などの出前公演のための修行に感動しました。「これは見に来てくれる人たちへの愛だ」と洋子さんが僕に一回おこりました。会場に入って、直ぐ決断するのです。舞台はどこか。照明器はどこか。部屋を替えてもらうか。今まで縦しか使われていなかった部屋を横にするか。どこでも可能性があります。高いところを目指さなかったからのようです。「その場で、全部出して、終わるとワーと帰ってくる」と洋子さん。13ヶ所はそれぞれ大変でよかったし、それぞれ違いました。
 洋子さん、ありがとう。順子さん、勤子さん、阿部ちゃん、智子さん、小原さん、このツアーを実現して下さった皆様ありがとう。お休みどころの根を土に伸ばして下さってありがとう。土を生かしてありがとう。
(グレゴリー・ヴァンダービルト)
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お休みどころ | 2005年のお休みどころ | 18:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

お休みどころ 2005年11月1日 月曜日

 いまから林洋子さんを「白水」(しらみず)へ訪れます。青空の下、すてきなランチタイム。おにぎり、美瑛子パンを持ってゆきます。てくてくと3人で「白水」まで歩いてゆきます。行きは40分、帰りは50分程でしょうか。日常的に歩かねばならなかったのにいまようやくそれができました。こんなかんたんなことができなかったのは、心のさえぎりがあったのでしょう。
 わが足で歩く。立つ。どんなところにも。全身、足の裏。洋子さんの奉納公演の前、「白水」(民宿)のある古屋敷地区30軒、グレッグさんと2人、チラシをもって一軒一軒訪ねました。「ハナ子さんの奉納公演です。よろしくお願いします」と2人で頭を下げました。この地区は以前―1960年半ば―は水上村で一番栄えたところでした。椎葉村との材木道の中継地点。お隣のケサヨシさんの小さいころなど馬が何百頭もお尻とお尻をむかいあわせにつながれていて、その間を馬にけられないように歩いていたそうです。そろりそろりと。その地区がいまはすっかりさびれています。大家さんのハナ子さんはこの5/24に83歳の自死。唯一の商店もこの春に店閉まい。軒先に美しい小鳥が小さなかごの中に飼われております。家に帰って名前を調べてみましたが、のっていません。羽の抜け、いらいらとかごを右に左に動く小鳥がせつなくて、せめて名前を知ってみようとおもうのですが、ないのです。後日、それだけを知りたくてたずねました。「チョウセンウグイスといいよっとですよ。きれいか声でなきますと、ほんにきれいかですよ。」小鳥のように黒い目をして、背の丸いお店の人は教えてくれました。ハナ子さんはそこでよく買物をしておりました。
 「このパンにはチーズが合う。チーズが食べたい」と洋子さん。商店はなし、郵便局には、むろん、チーズなどなし。(古屋敷郵便局には局長夫婦と吉田さんという若い局員さんの3人です。洋子さんのラヂオ深夜便をたまたまきいた局長さんは、お休みどころ奉納公演に鍋ごとぜんざい持参で来訪。)チーズ、チーズ。とおもっていると、「白水」のおかみさんがいまから買い物に行くので留守をお願いしますといいにきます。渡りに船。「どんなのがよかですか。」とおかみさん「ふつうのプロセスチーズで、カットしてあるものがいいです。」と洋子さん。おかみさんが行ったあと、洋子さんはいいます。「あれやこれや、たとえばクリームチーズといってもないでしょ。」
 私はほうっと感心しました。条件の中で最も快いものを選ぶその素早い智恵に。きたえあげた漁(猟)師のごとく。「おのれが選択して生きること。それがいのちのふしぎ。」と洋子さんはいいます。その日の夕食会での団らんのときに。きのうもきょうも、いそこさんはヘルパーの仕事の帰りに、「白水」の洋子さんをクルマで拾ってきてくれるのでした。
 「何かを選ぶことは何かを捨てることではないですか。」ときくと、「それはそうです。けど、捨てるというような悲愴感はない。あれもこれもということは多分できない。」と洋子さん。「お先真暗とかないんですか。」と興野がきけば、「あります。」ときっぱり。「『雁の童子』にあるように、水は流れる、ということを信じるんです。あたふたしないでじっと淵にひっかかっているんです。そこであたふたして、ダメだとおもったら淵の中にひきこまれてしまう。その中でできることをやるんです。どれだけ耐えられるか、です。3年でも5年でも耐えます。自我などちっぽけなもんですよ。」
 「流れない淵に入りこんだとき、どうやって耐えられるか。いちばん真価が問われるときです。いのちは自我より、もっとつよいもんです。いのちは、平等に与えられていて、善も悪も、もっています。
 自分だけで自分のいのちの善を発見できるものではないんでしょうね。出会った人たちによって、発見されるのでしょう。」
 「いちょう」の「おっかさん」の語りに、小さな「実」たちは、ききほれる。
(上島聖好)

 
 洋子さんの開く空間はとても不思議なのです。ツアー中、僕は照明係にさせてもらっています。子どもごろから劇に参加したかったがすごく緊張しています。小十郎が熊と会うとき光を強くしたり、最後に洋子さんが琵琶でツル――とするとフェードアウトしたりするぐらいの仕事ですが面白い。お休みどころの公演のあと、郵便局の西さんのお姉さんは「弾かせて下さい。」と洋子さんにたのみました。(山田小学校の2年生の何人もそうでした。)そのときも、洋子さんは「ライトつけて下さい!」と言いました。舞台から(ステージでも、学問でも)ではないからこそ面白いです。
 洋子さんにとってインド体験はとても大きいのです。とくに、ベンガル(来年行くバングラデシュを含めて)の人たちの人懐こさが好きだそうです。本質を捨てない近代を探しに行ったそうでした。インドに永住せずに賢治さんの仕事してきました。「クーボーもインドへ」と洋子さんがすすめてくれました。
(グレゴリー・ヴァンダービルト)


10月30日お休みどころ 奉納公演
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出席者49人。地元の人が多くて、よろこびました。ハナ子さんに、捧げます。
聖好さん 司会、 グレッグさん スポットライト、 田嶋順子さん PR、草刈り、調理ほか、 阿部勤子さん PR、物品販売、 吉岡潤さん カメラ、控室扉の開閉、 野中桂子さん 調理、 田中澄子さん 調理、 興野さん 受付、
その他、多くの方のお助けで林洋子公演が実現しました。
ありがとうございます。

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 去年、吊り橋から身を投げた北九州の女性にも、捧げます。

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 「白水」の大将が、帰りぎわに言いました。「芸というか、芸術というか夢のようじゃった。半分くらいわからんかったけど、えらい友重さん(ハナ子さんのつれあい)に似た話だなとおもうた。猟師だったけんなあ。天国でよろこびなっと。せめてもう1年前にハナ子さんがこれを見なったら、ああいうことにならんかったかもしれん。きっとよろこんでおらるっじゃろ。」ありがとうございました。

 洋子さんは名付けがうまい。阿部ちゃんは、ホピ。グレオは、クーボー。オキノは博士。2人あわせてクーボー博士。いそこさんはくちなしの花。「聖好さん、『くちなしとホピ』なんて書かない? ヨモさんの伝記も読みたい。」洋子さんは、オソロシイ。

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クラムボンの会グッズ。カニさんのベル。響け、ひびけ、ひびきあう。

 声はのどで出すものじゃない。手の先から足の先から全部血がかよってて、全部にひびかせて出す。(林洋子さん、2005.10.30)

 地もよろこんだのか、「なめとこ山の熊」のとき、鹿は3回、ひゅーんと鳴きました。

 「やらねばならない。これはせいぜいつづいて三年。やりたいから、やる。行きたいから行く。」「1971年に上村智子ちゃんのおらび声をきいた。そして、宮沢賢治さんに出会った。感謝です。」
 満天の星空の下にたたずんで、洋子さんは語ります。「おお、チビや、チビ。大好きよ。」チビはなでてもらって、ごきげんです。
(上島聖好)

われらに要るものは 銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である
(宮沢賢治)

30日に来てくれた人は「なめとこ山の小十郎はこの家の友重さんと似ていましたよ。」と。毎年、猪、鹿200頭を取った上手な猟師だったと皆が言います。今回の供養は人間も動物も両方の魂のためだったと思う。
お休みどころ | 2005年のお休みどころ | 18:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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