2012.09.02 Sunday
お休みどころの2005年
お休みどころの2005年
作製:お休みどころ
1月
1日は晴れ。朝の土間0℃。
犬のチビの散歩中に、付近の地形を知ろうと、山の斜面を歩く。泉をみつける。
湧水の水量がへる。湯沸し器が凍る。
北御門すすぐさん、阿部雅弘さん、マックさんたちが焚木を持ってきて下さる。
1/7(金)〜1/13(木)まで、興野は鹿児島にて堂園メディカルハウスでの実習および神田橋條治さん(精神科医)の診療見学。(以後3月まで実習に月1回1週間出かける。)
2月
2/7(月)〜2/10(木)、来日したグレッグさんと鹿児島でおちあう。小原裕子さん宅に2泊。
2/16(水)、北御門二郎祭を開く(故・北御門さんは翻訳家)。11人が参加。東京から石原孝之さん、京都から川村幸司さん、山崎圭子さんが泊まりがけで来訪。著作の朗読、納屋での火語り、もちつきなどを行う。
グレッグさん、お休みどころ参加の意志を論文にする。連日UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の博士論文作製(日本近代史)。
3月
3/2(水)〜3/12(土)、京都行き。宮崎←→大阪のフェリーで行き帰り。国立ハンセン病療養所・長島愛生園に滞在。エッセイストの岡部伊都子さんの新マンションと旧宅を訪問。川村幸司くん・山崎圭子さんの結婚式に参加。鞍馬寺の観光。明石土山病院で波多腰正隆さん(精神科医)の外来見学などもりだくさん。
お休みどころよりさらに山奥の平畑(だいらこば)地区のOさん死去。残った2人が山を下り、平畑が無人となる。
3/23(水)神田橋さんが伊敷病院の院長との面接を設定してくださり、興野は精神科医として就職できることになった。急転回におどろきつつ、やったあ。4/1から毎週水曜の朝に出かけ、土曜の夜に帰る生活に入る。
4月
田嶋順子さんの指導で上島聖好さん、畑仕事に精を出す。(スミレ、ビワ、ミント、ヤロー、ワケギ、チンゲンサイ、小松菜、カボチャ、冬瓜、キュウリ、サツマイモ、里芋など)
鹿よけネットをはる。
4/9(土)、堂園メディカルハウスの上村富美子さんと夜桜花見。(上村さんは肺がん末期の体をおして、去年11月お休みどころに来てくださった)。
4/12(火)、玉名の蓮華寺にてチベット亡命政府のダライ・ラマ法王の法話を聞く。聖好さん、車中のダライ・ラマの手をとる。
5月
5/6(金)〜5/15(日)聖好さん京都へ。5/8、「岡部伊都子を語る会」(能登川町立図書館)に参加。5/14(土)、法然院での林洋子さん(一人語り芝居)公演の際、お休みどころに来てくださるようお願いする。(11月の九州巡行公演に結実する)。
5/15(日)〜5/16(月)、長島愛生園の金泰九さんが大黒澄枝さんと鹿児島に来る。神田橋さんにも会っていただく。神田橋さんは金泰九さんに感銘をうけ、こう言った。「苦難と悲しみが発酵をして別なものになっている……。尊敬します。」お休みどころにも来ていただく。小原裕子さんが運転を買って出てくださる。
5/28(土)、聖好さんの弟の上島聖雄さん一家が4人で来訪。4/27に生まれたチビのオスの子をひきとっていかれる。テン(天)と命名。
6月
戦闘機の轟音がひんぱんに聞こえる。人吉に行く際、バスの運転手の緒方さん(元・自衛官。お休みどころにも来訪)に聞いたところでは、宮崎県の新田原(にうたばる)基地が近く、そこから飛んでくるらしい。
6/12(土)〜6/22(水)、グレッグさんのUCLA大学院博士課程卒業を祝いにアメリカのカリフォルニア州への旅。聖好さんの甥の聖太くんと3人で。宮田光雄さん(思想史の学者)の著作英訳という仕事を、聖好さんはグレッグさんへのおみやげに持っていく。グレッグさんのロサンゼルスの下宿に滞在。グレッグさんの家族、友人、思想家であったクリシュナムルティの地オーハイなどを堪能する。帰りの飛行機を乗りすごしさえしなければ完璧だったのだが。
7月
チビにはノミがたくさん。でもお休みどころの最初の年(2003年)のように家の中にたくさんいることはない。
7/17(日)、水俣の産廃建設反対集会に田嶋順子さんと3人で参加。二次会の席で、林洋子公演を水俣でも開いてくださるよう聖好さんがアピール(11/3公演に結実)。アピールできたのは高倉敦子さんのはからい。(そもそもの糸口は、阿部勤子さん)
7/24(日)〜7/27(木)、鹿児島へ。小原裕子さん宅に泊めていただく。朴才暎さん来訪のお迎え。林洋子公演の件で「どんぐりの家」(無認可保育園)訪問。(小原裕子さんのはからい)
8月
8/14(日)〜8/16(火)、熊本市と阿蘇への旅(林洋子公演の件)。熊本近代文学館で北御門二郎展を見る。映画『わたしの季節』上演会に参加。富樫貞夫さん(法学者)とグレッグさんの就職の件で話す。阿蘇の「風流(かざる)ホール」を訪ねる。
8/29(月)、カボチャや冬瓜の重みで鹿よけネットがこわれたスキに、鹿が畑を荒らす。
9月
8/31(水)〜9/5(月)聖好さん京都へ。台風で帰りの飛行機欠航。結局9/9(金)に帰りつく。
9/10(土)〜9/11(日)、第1回お休み講座。神田橋條治さんが講師。二日間でのべ50人が参加(夕食会、翌朝の講演会、昼食会)。
9/16(金)、隣家の椎葉ミツ子さんが足の骨折で入院と聞く。一人暮らしなので、骨折後2日目に妹さんが発見。ミツ子さん宅、空屋になる。ネコ20匹離散。
9/25(日)、棟梁の浦松さん、大工の阿部さんたち5人来訪。納屋の改装を決定。(以後、毎月一度、母屋か納屋の改装かどちらがいいか話しあう。)
10月
聖好さん夏物冬物入換え。ネズミのフンが押入れに。太いネズミが横行しはじめる。
9/29(木)〜12/19(月)、グレッグさん来日。(林洋子さんの件で、福岡の友人3人と9/30会う。)
9/29(木)〜10/2(日)、グレッグさんと聖好さん、福岡と熊本への旅。10/1(土)には哲学者の鶴見俊輔さんの講演会に参加(会場は熊本のびわの木文庫)。(9/30、熊本学園大の富樫貞夫さんにグレッグさんの就職の件で会う。)
10/16(日)、地元の平谷地区の山の神祭り。
10/23(日)〜10/25(火)、田嶋順子さん、阿部勤子さんと東京へ。10/23(日)、林洋子25周年記念の会に出席。10/25(火)は韓国・台湾のハンセン病国家賠償訴訟の判決日。宿泊したハンセン病療養所・多摩全生園で原告の方々に出会う。歴史に居合わせたのだ。
11月
10/27(木)〜11/15(火)、林洋子九州巡行公演の運営(阿蘇、球磨、水俣、鹿児島、福岡、計13ヶ所)。10/30(日)は第2回お休み講座としてお休みどころでの公演。50人が参加。聖好さんとグレッグさんはほぼ全会場へ同行。(桑原智子さん、いそこさん、順子さん、運転を、ありがとうありがたく。)
11/23(水)〜11/26(土)、グレッグさん一人旅へ出発。知覧、「ガイア水俣」などを訪れる。
ネズミ害が発生。夜に天井裏をドタドタ走る。大きすぎて、ネズミ捕りシート「ぺったんこ」にかかっても逃げてしまう。困りはて、とうとう毒を使うことになった。11/28(月)、湯前町の薬屋が配達してくれる。(毒といっても、人間には脳梗塞の薬。血をさらさらにする。)2週間後、聖好さんの仕事机の足元の電熱マットの上にネズミの死体を発見。
12月
12/3(土)〜12/6(火)、仙台・山形への旅。仙台では宮田光雄さん・通子夫人の聖書研究会に参加。(宮田さんが書いた『権威と服従』をグレッグさんは2006年翻訳する。)雪の仙山線(せんざんせん)に乗る。山形では果樹園の齋藤農園を訪ねる。
聖好さん、グレッグさんは12/14(水)〜12/17(土)京都へ。
グレッグさん見送りのため12/17(土)〜12/20(火)東京へ。林洋子さんのマンション(三田ハウス)に滞在。茨木のり子さんにも会う。鈴木好子さんの導きで、安江良介さんの墓参も。
12/31(土)〜1/2(月)、宮崎県高鍋の横川澄夫牧師、ミサオさんを訪ねる。朝5:30にチャボのなく横川家で、すがすがしい新年を迎えた。
2005年1月から田嶋順子さんの発案で例会をはじめることができました。深山の花園です。
今年はお休み講座に金泰九さんをお招きしたい。京都の論楽社で「山下満智子展」(山下さんは裁縫家)を開きたいというのが、私たちの願いです。
(2006年1月9日 作製)
寒い日が続きます。
あの人は、元気かなあ。この人も、どうしているだろう。
なにより、わたし。いのち燃やせよ。しずまりかえった夜に、薪をくべます。炎は、ほのかな人のかたち。
こうして冬を過ごせますのも、おひとりおひとり、あなたのおかげです。
ありがとうございます。
2005年9月、「お休み講座」がはじまりました。
5月24日、お休みどころの、大家さん、ハナ子さん(83歳)の自死が機縁となりました。地元の人はいいます。「息子さんを待っとったのに、正月も連休も帰ってきなれんじゃったもんなあ。」
葬儀の日、関西から帰った息子さんはこう挨拶しました。「母は自らいのちを絶ちました。が、母の最後の願い、この水上村の古屋敷で死にたいという願いは叶えられました。みなさん、ありがとうございました。」そう言って、五十をとうに過ぎた息子さんは泣きながら、座敷の畳みに、ガバリと頭をつけました。
葬儀は、茅吹き屋根にトタンをかぶせたハナ子さんの小さな自宅でひっそりとおこなわれました。古屋敷という地区の村人総勢30人ほど、老いた人々がとりしきり、棺をかつぎました。棺の上には、縄(左によってある)と松明と。「あ、わらじがなか!」と村の人。ほんとうは、わらじものっているそうです。観音経がしずかに流れ、うぐいすはのどかに鳴いておりました。
古屋敷は、ここお休みどころから下って四キロ。地区の中心地。ですが、いまでは、たった一軒あった商店も閉まりました。小学校も私たちが移った年に閉校。むかしは最大260人もいたそうです。
どうしてこんなにさびれたか。それはいつのときからなのか。「息子」たちはどこへ行ってしまったのか。
私たちはクルマのない暮らしを選んでいるわけですが、クルマは収入の多寡にかかわりなく、薪一本と同じように必需品です。クルマは、いつから、村々をくまなく席巻したのか。
ここは九州山脈の只中。山、山、山、というのに、道路沿いは杉、桧の人口林。薪としては力に欠けます。それは、いつのときからなのか。密生したまま放りだされたのか。
フェリーで京都に帰るなら、まず、大阪港へ着きます。早朝の大阪を横切ってゆくとき、電車の窓からブルーシートが目にとびこんできます。入佐明美さんは元気かな。入佐さんは日雇い労働者の街釜ヶ崎に住み、労働者の話をきく「ボランティア・ケースワーカー」です。年は私と同じ。誰に頼まれたのでもなく、ただ、それがうれしいから彼らの話に耳を傾ける。
グレッグさんを送り、ひとり山寒生活に入ると、ブルーシートが浮かんできます。折しも虫賀くんも仕事(取材)かたがた入佐さんを訪ねた由。ありがたい。入佐さんに手紙を書いて、あらためて、ご著書『地下足袋の詩』(東方出版)を送っていただきました。
胸、衝かれました。そこには、ここから行った人たちの姿が書かれてありました。入佐さんの本を以前にも読み、論楽社の講座にも来ていただいたはずなのに、私は何も聞いても読んでもいなかったのでした。
こことそこ。つながっている。一本の川。
球磨川は、水俣の海に注がれているだけではなかったのでした。
この春、ようやく遅れに遅れていたお休みどころの改築に入ります。(せめて雪の降りこまない家に。一夜の宿をこう旅人に暖をとってもらいたい。)
改築の許可を、まずは村長さんを間に、それから私たちが直接交渉することになりました。村長さんからなかなかれんらくがないなとおもっていたら、「遅くなってごめんなさい。なかなか息子さんがつかまらんもんで。午前二時までの仕事で、昼間は休んどらすということで。」きけば、息子さんは若いころは山仕事をしておられ、いまはゴミの仕事をしておられるのでした。
「成功」した息子たち。「成功」を免れた息子たち。
ここは、「息子」たちの、生産地。
2006年、お休みどころは、三人からの出発です。
ここ辺境にいるというのは、ある意味で、北御門二郎さんの「徴兵拒否」。
薪一本、ほのかなレジスタンス。
林洋子さんの公演に来て下さった柳川ミツエさん(70)に新年のご挨拶をでんわでいたしました。柳川さんはここから四キロほど上に住んでおられます。お留守かなとおもってでんわをおこうとしたとき、野の草のような声が響いてまいりました。「まきとりの仕事をしとったとですよ。チェンソ(チェーンソー)で切ったり。仕事がいきがいっちゅうか、ひとりになってやむをえんこつもありますが、あとさき残ったもんがせんば。クルマも乗りまっせん。先祖をまつって山の手入れをしとります。
自分の土地というものがあれば、足踏んでおった方が落ちつくとですよ。」と言い言い、ミツエさんは笑います。
ミツエさんが笑うと、花一輪咲きいでるよう。ポッポッポッ。
そんなお休みどころでありましょう。ようこそようこそ。
いつもあなたを待っています。
上島聖好
この冬を越すと平谷に3年。なぜか、ここは僕のふるさとだと感じます。
都会の病院とこの山奥を行き来しながら、自分にできることは何か考えていきたいです。
石の上にも三年と言いますが、お休みどころの基盤づくりだけでも、三年以上かかると知りました。
奇妙な三人航海ですが、どうぞ皆様ご支援ください。
興野康也
「その光(神様であるいのち)は暗やみの中で、輝いている。暗やみがその光をしのぐことはなかった。」ヨハネ福音書
新年おめでとうございます。この2006年にもこの光を信じて、希望を語り合ったり、平和を実現したりできるようにお祈りし続けます。
2005年はイラクでの戦争が続いて、殺された人数がイラク人3万人、アメリカ人2千人をこえた暗やみの年でした。このうちに人間1人として、人間3人として、人間万人としてどう生きるかどう抵抗するか考え続けています。
皆さまの親切と力のお蔭さまで6月学生としての長年が終って、新しい出発を迎えました。日本での出会いは平和への道の導きだと信じて、仕事ができるようになりました。宮田光雄さんの『権威と服従、近代日本におけるローマ書十三章』を英訳してから、先生として導いて下さった人たちの書いたもの、生き方を、自分の生き方でことばにしたいと思います。この2005年にはお休みどころに長くいらせてもらって感謝しています。実現しつつあり、可能性を掘り起こしてもらいつつあると感じています。大変さしか見えない日々も多いけれどもそれぞれの道(詩人、精神科医、歴史家、犬)は共同ですし、先に生きる、共に生きる人たちの存在を不思議に感じて、感謝しています。
周辺から、又は世と世の間に生きるのは創造的な可能性があると信じています。皆さまと共に道をさぐる、希望を語り合える、平和を実現し合えるように、この2006年にもよろしくお願いします。
グレゴリーヴァンダービルト
カリフォルニア州チノー市にて
グレッグさんは復活祭ののち、お休みどころに復活します。2006年1月〜3月はUCLAで日本近代史の講義です。「戦時中の日本」がテーマ。